(注)飯尾氏と凧揚げ伝説
飯尾賢連……善四郎賢連……善四郎乗連(豊前守)…豊前守乗竜(連竜)
長子誕生を祝って凧を揚げたのが浜松のたこ揚げの起源といわれているが、その根拠となっている「浜松在城記」酒井真邑著(元文年間=1736〜41)
は、偽書説があり、にわかに信じがたい。

(注)姫塚伝説…「家康の散歩道」参照
 室町時代(1392〜1573)飯尾家第四代の引馬城主であった、今川家の武将飯尾豊前守乗竜公が今川氏真(1538〜1614)に殺害された後、その妻「お田鶴の方」(椿姫)が第五代引馬城主となった。しかし、家康との戦いにおいて永禄11年(1658)12月、武運つたなく討死した。今川家の恩義に生き、女城主として引間城を最期まで死守した女丈夫であったが、侍女十八名と共に曳馬野の露と果てた。母同士が姉妹にあたる、家康の正室築山御前は、その死を哀れに思い、討死の場所で読経供養を営んでから、塚の周囲に百余株の椿を植えた。数日後、椿はゆかりの色と香りをこめて微笑むように咲きほころんだと伝えられる。

(注)松平伯耆守資俊(1660〜1723浜松在城期間1702〜23)
 宮家の臣。本庄家の出。万治3年(1660)生まれ。伯母の桂昌院(1627〜1705)が徳川綱吉(1646〜1709)の生母であったことで、幼い綱吉に仕えた。資俊はじめ一族は、桂昌院を出した家柄として優遇された。在城中の享保8年(1723)64才で没した。

(注)法華宗
 日蓮宗の一派。昭和16年(1941)法華宗陣門流。本妙法華宗(日隆門流)・本門法華宗(日真門流)が合同して、法華宗と称したが、昭和27年(1952)再分裂し、それぞれ法華宗陣門流・同本門流・同真門流と称した。総本山は、陣門流は新潟県三条市の本成寺・本門流は京都市の本山本能寺・真門流は京都市の総本山本隆寺。
 
 ※もとは天台宗が「法華経」を根本経典としたので天台宗の別称であった。しかし、後に日蓮が現れて盛んに「法華経」を広めたので、俗に日蓮宗を法華宗と称するようになり、日蓮宗の別称ともなった。

 (注)酒井真邑の「浜松城記」   「浜松市史」全  P1028
   一、永禄年中 飯尾豊前守殿御居城
     この子孫曳馬野に住する時、義広(豊前守殿長子)殿誕生の時佐橋甚五郎(入野の者)凧の大なるものに御名を記し奉る。
   一、元亀二年より家康公御居城 七八年
    元亀六年端午の日、旗本松平頼母と秀康の客と大手前にて源五郎凧を揚ぐ。
   一、天正十八年より飯尾帯刀殿御居城 十三年
    この間浜松の町内に凧揚げの儀起こる城内のすすめによる。
   一、慶長六年より松平左馬守殿 九年御居城
    慶長九年、前出佐橋甚五郎、朝鮮に帰化して朝鮮人使節となりて浜松の凧を笑ふ、左馬守殿江戸に申送る。永野、小松の旗本来たり大いに争ふ。
      (中略)
   一、正保元年より太田備中守殿  三十三年居城
    太田摂津守殿三州西尾に御引越しの節端午の凧揚げを吉田邊に拡める。
   一、元禄十五年より本荘安芸守殿 二十六年居城
   一、享保十四年より松平伊豆守 二十一年居城
    三州吉田へ引越し、その前々年濱松と吉田の凧合戦を端午に三方原に行ふ
   一、寛延三年より松平豊後守 十年居城
    丹州宮津に引越、宮津にて同豊後守殿在城中凧上の行事あり。
   一、宝暦九年卯年より井上河内守 六十年居城
    奥州棚倉へ御所替被成候、棚倉にて御画所逸斎に関羽を描かせし大凧をあぐることあり。井上日記に見ゆ、肥前唐津より
   一、弘化三丙午年より井上河内殿 御居城
     元文四未年  酒井近江守真邑筆記