(注)県 藤七郎
 県藤七郎は引佐郡井伊谷村の出なり。鉄翁と号す。井上河内守浜松在城時代、森田町付近は西伊場村と称し、荒蕪地多く五穀生ぜず。藩屡々之が開墾を命ずれども応ずる者なし。藤七郎之を聞き安政5年(1858)有志の農民を招きて率先移住す。すべて十五戸。是より日夜指導奨励、草莽を刈り、石礫を除き、悪水を排除し、遂に田圃十数町を開き戸口次第に増加す。名づけて「毛利多」と云う。(毛利多は邦語屯田の意なり。後人森田の字を充つといふ)藩主其の功を賞し大いに優遇せり。元治中藤七郎義子某をして代らしめ、自から出でて井上氏に仕ふ。井上氏上総に封を、亦之に従ひて屡々功あり。廃藩後浜松還り後見付町に移り、明治29年(1896)7月病みて没す。年88才。成子町法林寺に葬る。森田町藤七郎居宅の前に「懐恩碑」あり。碑は明治32年(1899)5月住民相謀りて其の徳を謝し、功績を伝えんがために建てたるものなり。  「浜松市史」全 P897
 ※懐恩碑
  明治32年建立  長谷川貞雄題額
           太田有終撰
           後藤南涯書
           村石旭陵刻
     「浜松市史」全 P1013〜4 に碑文を記す。