(注)高力摂津守忠房(1584〜1655)
 浜松城在城期間は、元和5年(1619)から寛永15年(1638)の約20年間で、その間忠房は「町割」や宿場の機能・藩財政の整備に着手し、浜松城下町と宿場町の機能をもった町にすることに貢献した。五社神社には忠房寄進の「手水鉢」がある。また天林寺には忠房の次男・長房の墓がある。長房は寛永7年(1630)家光に拝謁し、江戸城中の「小姓」の職についたが、翌年死亡し天林寺に葬られた。法名「鉄深」。
 忠房は1638年「島原の乱」(1637〜8)の戦後処理として、外様大名の多い九州の取りまとめ役として、島原に転封となり、荒廃した農村復興策として、九州各藩・天領などから農民を招いたり、雲仙山麓の清水と温暖で肥沃な土地に産する小麦と、「手のべそうめん・うどん」製作のすぐれたものがいることに着目して、「島原手延べそうめん」の製造と普及に努めた。参勤交代の途中京都において没した。享年72才。忠房の室は真田伊豆上信之の女である。
   「浜松城と歴代城主」・ホームページ「西有家ドットコム」より
 ◆忠房が跡目を継いだのは、16才の時でこれ以降2代将軍秀忠の「忠」を賜り忠房と称した。秀忠に仕え「関ヶ原の戦い」(1600)では信濃國筋で秀忠を助けた。    「浜松城と歴代城主」より
 ◆忠房の父・清長は三河三奉行の一人で、「仏の高力」といわれた。15才の時秀忠の御前で元服、翌年岩槻城の城主となった。
          「浜松城と家康公」より