(注)杉浦国頭墓所」現地説明板   中島町
   杉浦国頭 遠江国学の始祖
  国頭は慶長6年(1678)8月23日、医師渡邊竹庵の二男として浜松後道(今の千歳町)に生まれ、6才で叔父忠義の跡を継ぎ、浜松諏訪神社神主(大祝)となった。23才で従五位下信濃守となっちゃ。その頃諏訪神社は破損が目立ち社殿修復に幕府の補助を願い出た。江戸滞在中、国学者荷田春満に出会い、26才で門人となった。27才の秋、師の春満に松籟を嘱望されて姪の雅子(のちの真崎)を妻に迎えた。真崎との縁で春満がしばしば浜松を訪れるようになり、浜松に詠歌・国学が盛んになった。国頭夫妻は、深い学識と熱心な指導により、賀茂真淵をはじめとする多くの門人を育てた。57才の時「尽敬会」を創立し、「日本書紀」を講義して「神祇道」を唱え、古学の復興に力を尽くし、遠江国学の始祖として、また浜松文化の開拓者として活躍した。「曳馬拾遺」「振裾考記」などの郷土地誌や、歌集「国頭千首」、雅文「野のあそび」などの著書を残して、元文5年(1740)6月4日、63才でこの世を去り、左後方の墓に葬られた。
     平成6年6月4日   東 部 郷 土 史 会
                協力杉浦家当主 杉浦正一
※六本松
  中島町の西北方、馬込川に沿える所に在り。明治維新の頃、此の松を伐りりしに、その杣(そま=木樵)すべて熱病にかかりて死し、尚其の子孫にも白痴となりしものありたりとて、今に霊地として雑草荊棘生ひ繁るも鎌を入れず。近年村民昔を偲びて松を植う。利町なる諏訪神社より神輿渡御の時は、此所を休憩所とし、御旅所と称す。  「浜松市史」全 P846