(注))報国隊について
@「静岡大百科事典」   静岡新聞社   P103
    1868年(慶応4)2月倒幕軍の東下に当って、遠州浜松・見付を中心に結成された神官層主体の民兵隊。
   地方神道運動の中心で駿州赤心隊。伊豆伊吹隊結成等に影響を与えた。浜松の「国学研究会」に属する神主たちが先達。その一人の桑原真(み)清(すが)(後まきよ)らは、倒幕軍の桑名入城をきき、赴き軍資金の献納と従軍を志願。帰国して遠州各地の神主に勤皇隊の結成を呼びかけ、2月21日浜松利町諏訪神社に一団を組織し「報国隊」と称した。隊員306人。浜名湖今切と天竜川の従軍許可を得て、4月倒幕軍に従い江戸に入り、江戸の警備、彰義隊攻撃にも参加した。大砲隊を編成し、戊辰戦役戦没者の招魂際(招魂社の祭典)には、赤心隊とともに参列した。大久保初太郎(春野=1846-1915)は祭主をつとめた。東北鎮定を機に東征大総督有栖川宮熾(ありすがわのみやたる)仁(ひと)親王(しんのう)(1835-95)の京都凱旋がきまると、官途についた者を除く74人がこれに従い、11月留守隊に迎えられ浜松に戻った。神葬祭(神道の儀式による葬祭)の実行を願い出て気勢をあげたが、徳川藩に従い移住してきた幕臣との間に摩擦を生じた。また隊員の中にも東京移住論と郷里残留論が起こり報国隊は分裂した。東京移住の32人は招魂社(しょうこんしゃ)(靖国神社)に奉仕、賀茂備後(びんご)(水(みず)穂(ほ)=1840-1909)は宮司(ぐうじ)(神職)となった。大久保初太郎、長谷川権太夫(貞雄=1845-1905)のように陸軍大将、海軍主計総監になるものもあったが、多くは郷里で忠実に神職をつとめた。明治41年(1908)浜松五社神社に記念碑が建てられたが、現在は五社公園にうつされている。
A「浜名郡誌」(全)   名著出版 昭和48年復刻版 P622
          大正3年(1914)刊・大正15年(1926)増補改定再版
 遠州報国隊は王政維新の際、遠江国に於ける神官を主として、その地勤皇有志の者之に加はれる一義団にして、慶応4年(1868)3月東征(とうせい)大総督有栖川宮熾仁親王 (1835-95)殿下護衛の列に加えられ、大旆(たいはい)(旗印とする大きい旗)に随って江戸に入り主として大総督本営に属して、諸種の軍務に従事し、東北平定するに及んでその11月4日感状及び兵器を賜り、帰国を命ぜられしが、折(おり)節(せつ)有栖川熾仁親王殿下帰京に付き、殿下守護の命を奉じ浜松駅に於いてお暇を賜り、茲(ここ)に解隊するに至れり。
報国隊ゆかりの人物(遠江を中心に)

 @桑原真(ま)清(きよ)(1821-1903)
  国学者、遠江国長上郡参(さんじ)野(の)(現浜松市参野町)に生まれる。初め式部、のち美(み)須賀(すが)又は虎次郎のち真(み)清(すが)という。「真清」は49歳以後は「姓名改姓願」によると「まきよ」とよむ。本姓菅原。有賀豊秋(1790-1882)について、国学を学び47歳の時、平田篤胤(1776-1843)没後の門人となる。「津(つ)毛利(もり)神社(じんじゃ)(浜松市参野町113)神主として活躍。同志を集めて「遠州報国隊」を結成し、その中心人物となり指導的役割を果たした。1868年招魂社祭主介添(大総督府辞令)のち幡(はた)鎌(かま)幸雄(さちお)(1808-90)らと「社司」となった。53歳で退官後帰郷。芳川村(現芳川町)村会議長となり郷里に貢献した。
※社司(しゃし)‥‥旧制で不県社・郷社の社(しゃ)掌(しょう)の上に位した神職。祭祀・庶務を管理。判任官待遇。祠官(しかん)とも。
※社掌‥‥旧制で不県社・郷社で「社司」の下に属した神職。村社以下では一切の事務を司った。

 A有賀豊秋(1821-1903)
 国学者・俳人・遠江国長上郡有玉郷幡谷村(現浜松市有玉南町)に生まれ、通称彦太郎、のち八十右衛門。本姓菅原。屋号伎倍廼舎(きべのや)と云った。幼少から同郷の高林方朗(たかばやしみちあきら)(1769-1846)に国学を学び、13歳のとき本居大平(1756-1833)にも入門した。元治元年(1864)頃から浜松を中心に「国学研究会」ができ、池田庄三郎(?-1806)の別荘比礼廼舎(ひれのや)などに杉浦大学(国頭(くにあきら)=1678-1740)・桑原真清(1821-1903)らが集まり、講師に豊秋が招かれた。この歌会がやがて幕末勤皇義団遠州報国隊に発展した。豊秋は俳号を烏玉・幽篁斎。浜北市金刀比羅宮に多くの句碑を残した。豊秋の墓は浜松市有玉南町の畑地にあり、その横に「佐保姫の霞のころも立かへりけさより春とあらたまりけり」(十湖書)の歌碑がある。豊秋の国学上の門人には大久保春野(はるの)(初太郎=1846-1915)。長谷川貞雄(1845-1905)・賀茂水穂)(1840-1909)らがいる。
 
B幡(はた)鎌(かま)幸雄(さちお)(1808-90)
 国学者。遠江国磐田郡匂坂上村(現磐田市匂坂上)に匂坂(さぎさか)政(まさ)広(ひろ)の三男。幼名五郎。のち左仲・勝(かつ)寿(とし)・苞(かね)隆(たか)。幸雄は遠州報国隊員として難を避けるための改名。新家の匂坂千足に養われ国学・詠歌(エイガとも。詩歌をよみあげること)を学ぶ。25歳のとき村(袋井市村(袋井市)周知郡山梨の山名神社神官幡鎌家に養子。この年179石川依(より)平(ひら)(1-1859)に入門、幡鎌家で古典の講会を開いた八木(やぎ)美(よし)穂(ほ)(1800-54)にも師事し、勤皇思想をはぐくむ。神官仲間の大久保忠(ただ)尚(なお)(1825-80)山崎八(やつ)峰(お)(1820-94)らと遠州報国隊結成の主唱者となり、国元留守居役に押され軍資金調達などに尽力する。報国隊の出征に際し、「武蔵野の嵐と散らむ紅葉葉も同じ錦の数とこそ見れ」と詠んだ。62歳のとき旧幕臣との争いを避けるため上京、招魂社の祭事関係を務め、さらに社司となる。67歳で退職。帰郷して山名神社の神官となる。遺書に「見聞記」がる。墓は郷里の西楽寺墓地に、報国隊員幡鎌幸雄ら三人の碑が山名神社境内にある。
C大久保春野(1846-1915)
  明治時代の軍人。陸軍大将。幼名初太郎。遠江国見付宿(磐田市)大久保忠尚(1825-80)の長男。明治維新時に尊皇攘夷思想に感化、遠州報国隊に加わる。慶応4年(1868)3月東征軍に隊員として参加、戊辰戦争で戦功をあげる。明治3年(1870)陸軍幼年学校に入り、のちフランス留学・帰国後少佐。日清戦争(1894-5)に従軍し、1894年少将。日露戦争(1904-5)ん第六師団長として奉天会戦(1905)で活躍、1907年薩長出身者以外では初の陸軍大将。日露戦争の功績により勲一等旭日大綬章、華族、男爵。招魂社(靖国神社)創立に尽力し初代宮司。死去に伴い従二位旭日菊花大授章。
D賀茂水(みず)穂(ほ)(1840-1909)
  国学者。代々神官。雄踏町宇布見の人。金山彦神社神官を継ぐ。幼少より国学を好み、遠州報国隊を組織し、有栖川宮熾仁親王の麾下(きか)に入り東征しその先鋒を勤めた。報国隊結成当時は賀茂備後、のち水穂。明治7年(1874)海軍少秘書。「佐賀の役」(1874)に従軍し戦功を立てた。その後海軍大秘書・大主計・少書記官を歴任。明治24年(1891)初代靖国神社宮司。明治42年(1909)正六位旭日章・翌年従五位勲五等。
※「佐賀の役」(1874)
  明治7年(1874)征韓論争に破れ下野した前参議江藤新平(1834-74)が中心になり、島 義勇(よしたけ)(1822-74)の率いる憂国党と結んで蜂起した反政府の士族反乱。征韓・旧制度復活・攘夷をスローガンとしたが、予期した西郷隆盛(1827-77)らの応援もなく。全権をうけた大久保利通(1830-78)の指揮下の追討政府軍に鎮圧された。島は鹿児島で、江藤は高知県甲(かん)ノ浦(うら)で逮捕、ともに梟首(きょうしゅ)(さらし首)となった。

E長谷川貞雄(1845-1905)
  国学者・軍人、遠江國豊田郡川袋村(磐田郡竜洋町=現磐田市)に生まれ、はじめ巌、のち貞雄。通称権太夫(頌徳碑)15歳で家業(酒造業)を継ぐ。幼時から学問を好み、有賀豊秋(1790-1882)に和歌を学ぶ。22歳の時平田篤胤(1776-1843)没後の門人となる。慶応4年(1868)遠州報国隊を結成し東征軍に従う。明治5年(1872)海軍省に出仕。明治22年(1889)海軍主計総監。中将。明治24年(1891)現役退官。勅選貴族院議員(頌徳碑)。晩年は浜松に住み西遠教育会総裁。竜洋町八雲神社前に頌徳碑、浜松県居神社本殿裏に長谷川貞雄胸像がある。長女多喜は寺内正毅(のちの内閣総理大臣)に次女芳は柴田家門(のちの文部大臣)に嫁した。三男鉄雄は誠心学園(現開成高校)を創立した。
F高林方(たかばやしみち)朗(あきら)(1769-1846)
   国学者。遠江国長上郡有玉下村(浜松市有玉南町)に庄屋・旗本家代官高林伊兵衛方救(みちひろ)の長男。通称勝三郎・伊兵衛・神官名舎人、家号臣下庵。代々古独(こどく)礼(れい)の待遇を受け、方朗も31歳で古独礼惣代(そうだい)となった。庄屋として村政に尽くす一方、13歳で内山真(ま)龍(たつ)(1740-1821)21歳で本居宣長(1730-1801)に入門、学友石塚龍(たつ)麿(まろ)(1764-1823)・夏目甕麿(みかまろ)(1773-1822)らと国学・詠歌に励んだ。59歳の時浜松藩主水野忠邦(1794-1851=在城期間1817-45)が京都所司代に就くと、勤仕(きんし)(勤め仕えること)して殊遇(しゅぐう)(特別待遇)を受けた。前後20年かけ真淵を祭る県居翁霊社(のちの県居神社)を完成させた。忠邦筆の「県居翁霊社」碑は県居神社は遺伝前(向かって左側)にある。78歳で没するまで国学運動の実践家として遠江国学の全盛期を作った。墓は生家近くの高林家の墓地にある。

 G八木美穂(1800-54)
  国学者、歌人。遠江国城東郡浜野村(小笠郡大東町)生まれ。幼名金松・林助、家名金兵衛・太郎左衛門、号誦習庵・中林。父から漢籍などを学び、20歳の時夏目甕麿(1773-1822)に入門。中山吉埴)(1756-1835)・石川依平(1791-1859)・栗田宣秋(土満の子息)らと交わり、詠歌・国学に励んだ。46歳の時庄屋となり。51歳で遠州横須賀学問所教授。門人に大久保忠尚(1825-80)・春野(1846-1915)父子がいる。美穂の屋敷跡は「美穂園」となり【志(し)長鳥(ながとり)】の歌碑がある。

 H大久保忠尚(1825-80)
  国学者。遠江国磐田郡見付(磐田市)、淡海国玉神社神官大久保忠照の子。幼名初太郎のち忠尚(忠直とも)・長門・縫殿助。号は菫園。13歳で八木美穂(180054)に入門。44歳の時神官仲間と集まり、遠州報国隊結成に参加、国元留守居役として東征軍に協力。報国隊解散後は招魂社祭典取調所に勤務、のち兵部省(ひょうぶしょう)に出仕、海軍少書記官。長男春野(1846-1915)報国隊員として活躍。のち男爵・陸軍大将に昇進。妻道子は報国隊の主唱者桑原真(ま)清(きよ)(1821-1903)の次女。

 I山崎八(やつ)峰(お)(1820-94)
 遠江国掛川(掛川市遊家)生まれ。代々天桜神社の神職で22代目。幼名鉾丸。石川依平(1791-1859)について歌学を学ぶ。慶応4年(1868)と鳥羽伏見の戦いに幕府軍敗退の報を聞き。遠州報国隊を結成し、2人の子供とともに参加。
報国隊解散後明治3年(1870)兵部省に出仕したが、病気のため帰郷。山名・城東・佐野三郡の式内社取調べ、明治6年(1873)浜松県学事取締を歴任。
 
 J池田庄三郎
 豪商・江戸時代後期、三代にわたり浜松藩の御用商人。初代勝彦は長上郡笠井村(浜松市笠井町)で稲荷明神の神官も勤める。二代勝定のとき浜松市愛宕下(浜松市元魚町)に移る。三代目勝光も商人。のち400石取りの士分。遠州報国隊に参画。別荘比礼廼舎(ひれのや)を同志たちの会合に使用させた。