(注)奥平信昌と加納御前
  @奥平信昌(1555〜1615)
    通称弥九八郎。家康に仕え1570年(元亀元年)姉川の戦いに出陣。一時、武田氏に属するが信玄没後、再び家康配下にもどり、1575年(天正3)長篠の戦いでは、長篠城に籠城して武田勝頼(1546〜82)の攻撃に抗し、織田・徳川軍を勝利に導き多大な戦功をあげた。その功により、織田信長(1534〜82)より「信」の一字を与えられ、「信昌」と改名した。1576年(天正4)三河国新城に移り、家康の長女亀姫(17才)と結婚。1534年(天正12)小牧長久手の戦い、1590年(天正18)小田原攻めに参陣。家康の関東入国(1590)の際、上野國宮崎3万石を与えられた。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いに参陣し、1601年(慶長6)美濃国加納10万石に移封となる。

  A加納御前
  徳川家康と築山御前の間に生まれた長女。夫・信昌が没し、彼女の長男家昌の時代になると、美濃加納から交通の要所宇都宮に転封となる。しかし、家昌が38才で急死し、その息子・忠昌がわずか7才で家督を継いだ直後、官僚派として台頭してきた本多正純(1565〜1637)が宇都宮に転封となり、忠昌は下総古河(しもうさこが)に追いやられた。  可愛い孫の転封と正純の入封は加納御前にとって大きなショックであったと思われる。しかしその娘は、正純により失脚させられた大久保忠隣(1553〜1628)の子・忠常に嫁いでいた。