注)石川鴻斎小伝(1833〜1918) 
    「郷土画人展  石川鴻斎」より  豊橋市美術博物館発行パンフレット
   石川鴻斎は、天保4年(1833)4月1日に吉田抱六町(現花園町)の商家大野屋石川平五郎の庶子(妾腹の子。嫡子以外の実子)として生まれた。名を景英、後に英と改め、初号を嵩雲といった。また、号は後に多く鴻斎(こうさい)を用い、他に芝山・石英・樵者、君華・雪泥などとも号した。
   幼少の頃から才知英発で文学を好み読書に没頭し、漢学を吉田の西岡翠園・大田晴軒・岡崎の曽我耐軒について学んだ。其の後、自家隣の浄円寺に了願(文政年間示寂)以来の経蔵があって蔵書が豊富であったから、その閲覧を乞い、」毎日所蔵の漢籍を読破し、ついには仏書にまで及んだという。鴻斎の学殖はこうして養われ、専門の漢学・詩文のほか和歌・俳句・茶道・南画もよくした。
   明治維新後、一時神奈川県傭史となり、明治10年(1877)1月から東京に移った。東京では三河出身の和泉屋市兵衛の経営する書店に勤め編集の仕事に携わった。次いで和泉屋の世話で、芝増上寺の旧学寮が改めて浄土宗学校として開校したときに、漢学の教師となった。
   同年、清国より来朝した全権公使と副使、その外随員8名が宿所として増上寺に滞在した。この時、鴻斎は筆談をもって会談に加わり、のち贈答した詩文中より数十篇を選んで一冊とし、翌11年8月、東京文昇堂より「芝山一笑」として刊行した。これにより、大いにその博識が賞せられ「漢学者鴻斎」の名は中央に高まり、其の名は全国的に知られるようになった。また、数多くの著作を手がけたり、小野湖山・前田黙鳳・依田学海・富岡鉄斎など当代一流の文人等と親交を結ぶなど、鴻斎の一番華やかな最も充実した時期であった。
   鴻斎の画風はまぎれもない南画であるが、具体的に誰に師事したのかは明らかでない。ただ、」その遺作中に数多くの山水画は遠江の平井顕斎や福田半香に相通ずるものがある。ここに顕斎との関わりを示す事例がある。それは、顕斎没後40年の明治29年(1896)、鴻斎の撰文によって顕斎の碑が静岡県榛原町細江円成寺門前に建てられた。それによれば、顕斎が安政2年(1855)岡崎に滞在した時、修業中の鴻斎と面識を結び「余の絵事を好むに至れる、実に翁(顕斎)に得る所多し」と記しているように、顕斎との出会いがその後の鴻斎画に影響を与えているのは事実であろう。なお顕斎は、谷文晁の画風を基調に渡辺崋山の様式を加味した作風を、山水画を中心に展開した崋山の高弟である。
また、鴻斎自身も深く崋山を崇拝していたようで、その遺作中に崋山の模成画が数多く見られる。いずれにしろ、交際は自ら学者に徹し、画業はおのずから余技で、詩文を本領とし、その絵も謹直で克明な画風をもっていた。
   明治28年(1895)頃より静岡県見付(現磐田市)に閑居し、尾張・三河・遠江を活動領域として東西の文人墨客らと往来した。この時代に多くの詩文書画・平井顕斎碑・福田半香碑などの碑文を手がけ、子供の名づけ親にもなるなど悠々と晩年を送り、大正7年(1918)9月13日、86歳をもって没した。
   主な作品は「春景山水図」(明治29年)、「山水十二景図」(明治34年)、「蘭亭曲水図」(大正4年)、「牡丹図」(大正6年)「竹図」(大正7年)などがある。