注)若槻礼次郎(1866〜1949)
   官僚・政党政治家。松江藩士奥村仙三郎の二男として島根・出雲に生まれ、若槻家の養子となった。東京大学卒業後大蔵省に入り、主税局長、次官をへて1912年第三次桂太郎内閣の蔵相、14年第二次大隈重信内閣の蔵相を歴任した。
  初めは加藤高明(1860〜1926)と共に憲政擁護運動に参加し、24年・25年の第一次・第二次加藤内閣の内相。加藤の死後、26年1月憲政会総裁となって内閣を組織したが、金融恐慌の措置をめぐって枢密院と対立、翌年総辞職した。30年ロンドン軍縮会議に全権として出席、国内強硬論を封じて条約締結を実現した。31年立憲民政党総裁として再び組閣したが、満州事変(1931〜33)後右翼の圧力と閣内対立によって、同年総辞職を余儀なくされ、34年には民政党総裁を辞し、重臣(昭和初期から第二次大戦まで、天皇の側近にあった重職者)となった。貴族院議員に勅選された。第二次世界大戦の終戦工作の和平派の一人。1949年静岡県伊東市で没した。