(注)大久保長安(1545-1613)       
  江戸初期の代官頭。国奉行・金山奉行。はじめ甲斐武田氏の家臣。一説には武田家の猿楽師の子ともいわれる。武田家滅亡後徳川家康(1542-1616)に仕え、諸国の金・銀山開発に当たる。大久保姓をうけ、石見守。 家康関東入国後は、伊奈忠(1550-1610)とともに、関東領国支配の中心となり、武蔵国八王子に陣屋(小門陣屋)を構えて指揮した。彼の検地は「石見検地」「大久保縄」などと呼ばれ、伊奈氏の「備前縄」と共に後の幕府検地の代表的仕法(しかた・方法)となった。 関ケ原の戦(1600)以後の支配地は、一説に120万石以上ともいわれ、また「石見銀山」「伊豆銀山」「佐渡銀山」を奉行し、いずれも細工に成功。初期江戸幕府の財政的基盤を確立した。東海道・中山道などの宿駅制度の確立、脇街道の整備などにも尽力した。死後、生前の不正を理由に遺子(いし)(遺児)7名が切腹、一族・縁故者なども処罰されたが、その真相は不明(大久保長安事件)。

(注)樽屋藤左衛門
 江戸町年寄樽屋の世襲名。初代三四郎はもと水野弥吉康忠という武士で、家康に従い各地を転戦。一時牢人(浪人)して町方に居住。家康の関東入国の際再び召され、以降奈良屋・喜多村と共に15代にわたり、江戸町年寄を世襲。本町2丁目拝領屋敷に役宅をおいて、身分は町人だが、町奉行の下で市中支配全般に関与した。った。また江戸枡座の頭人とし、東33ヵ国の枡の製造・販売を独占した。2代目以降はほぼ藤左衛門(後見は与左衛門)名を世襲。寛政2年(1790)12代与左衛門のとき、の苗字を名乗る事を許された

注)奈良屋市右衛門
  江戸時町年寄奈良屋の世襲名。初代市右衛門は大和国の豪族大舘氏の一族で、奈良に居住したが、三河時代から徳川家康に仕えたと伝えられる。「本能寺の変」(1582)の際。家康の「伊賀越え」の供をした小笠原小太郎が改名したとの説もある。家康の関東入国以来樽屋・喜多村と共に12代にわたり江戸町年寄りを世襲。本町一丁目の拝領屋敷に役宅をおいて市政の一端を担った。天保5年(1834)10代市右衛門のとき。先祖にちなみ館の苗字を名乗ることを許された。