(注)小笠原長清(1162−1242)について
(1)「鎌倉・室町人名事典」 P117
  加賀美長清。鎌倉初期の住人。父は源家6人の受領(ずりょう)の一人、加賀美遠光。 母は和田義盛の女、小笠原氏を称し、小笠原二郎と号す。承久の乱(1221)に際して は、東山道(五畿七道の一つ。畿内から北東方へ参観の諸国を連絡した道。近世のほ ぼ中山道に相当)の大将軍として上洛、その功により、阿波国守護に補任(ほにん)され た。以後、同国守護は累代小笠原氏の相伝(そうでん)(代々受け継ぐこと)となった。な お「吾妻(あづま)鑑(かがみ)」文治2年(1186)10月27日の条には、信濃国伴野庄地 頭として長清の名がみえている。
(2)「広辞苑」  電子辞書
  平安末・鎌倉初期の武士。小笠原氏の祖。源頼朝の挙兵に駿河の喜瀬川に会し、平 氏討伐、藤原泰衡の征討、承久の乱に功があり、阿波守護。
(3)「ホームページ」より
  小笠原家の初代。清和源氏の家系。長清は応保2年(1162)甲州生まれ、父は甲  斐源氏の加賀美遠光、母は和田義盛(1147−1213)の女、加賀美氏は甲斐の国の 小笠原(山梨県明野村)を本拠としたことから、「小笠原」を名乗った。平安末期には平  家に従ったが、治承4年(1180)源頼朝が挙兵すると、長清も頼朝方につき、以後源  平合戦。奥州藤原氏功をあげたという。
 承久3年(1221)承久の乱では、鎌倉方の東山道軍の大将軍として、御家人を率い鎌  倉幕府の勝利に貢献した。
 八ヶ岳南麓に位置する「小笠原」を拠点とした関係上、信濃国の諏訪地域と佐久地域に 進出できる地形にあったため、長清は子供を佐久地域の荘園の地頭に任命(伴野氏・  大井氏の祖)するなど、信濃方面に勢力を発展していった。
   江戸時代の長清の血脈は、各地に及び幕末には「松尾小笠原家」の越前国勝山藩  、「府中小笠原家」の肥前国唐津藩、豊前国小倉藩(香春藩・豊津藩)、小倉新田藩( 千束藩)、播磨国安志(あなし)藩、旗本などがある。
  また、小笠原長清は、26歳の時源頼朝の「糾方」(弓馬術礼法)師範となり、弓馬術 礼法は長男の長忠が伝承し、小笠原一族の惣領家となった。長忠家の7代小笠原貞  宗と次男清経家7代の小笠原常興は、共に後醍醐天皇(1288−1339在位1318− 39)天皇に仕え、武家の定まった方式として「終身論」「体用論」をまとめた。これが小  笠原流弓馬術礼法の基本となった。
  なお、山梨県南アルプス市には、小笠原長清公館跡や長清の孫上野盛長の築いた  上野城(椿城)跡(共に市指定文化財)があり、山梨県北巨摩郡明野村小笠原の長清  寺には小笠原長清の墓(村指定文化財)がある。墓(五輪塔)は二基あるが二基とも風 ・空輪が失われ、地・水・火の三輪のみである。
※小笠原流
  武家故実(有(ゆう)職(そく)故(こ)実(じつ))の一流派。源頼朝の臣、小笠原長清(116 2−1242)を祖とし、小笠原家第7代貞宗が武家礼節の書「三儀一統」を著し完成させ た。小笠原家は代々、鎌倉・室町・江戸幕府に仕えて、弓馬の故実を伝え、礼法を司っ 明治時代には学校教育にも採用された.。
◆有職…朝廷や武家の官職・典礼(定まった儀式・儀礼)に関する知識。
◆故実…昔の儀式・法制・服飾などの規定・習慣など。
◆有職故実…古来の儀式・礼法の典型的方式。それを研究する学問。初め「有職」は「  有識」と書き、歴史や故事(昔あった事柄)に通じた人を、また故実は礼式の手本となる 前例を意味した。公家については藤原実頼(900―70=小野宮流)と藤原師(もろ)輔  (すけ)(908−60=九条流)が有職の祖とされる。
  現在最古の儀式書は「内裏(だいり)式」「九条年中行事」「小野宮年中行事」「禁(きん )秘抄(ぴしょう)」などが有名である。中世武家の有職故実も重んじられ、伊勢・小笠原氏 が有職家として成立。江戸時代塙(はなわ)保己一(ほきいち)(1746−1821)編の「武 家名目抄(みょうもくしょう)」は鎌倉以後の武家故実の書として知られる。
◆内裏式
  有職書。宮中の主な年中行事の設営・調度・奉仕者・次第等を定めたもの。3卷。82 1年(光仁12)藤原冬嗣(ふゆつぐ)(775−826)ら撰(せん)進(しん)(詩歌・文章を作っ たり集めたりして天皇に奉ること)、833年(天長10)清原夏野(782−837)ら改修( 改め直すこと)。
◆禁秘抄
  宮中の行事・故実・慣例・事物などを91項目にわたって漢文で記述した書。順徳天皇 著。2卷。または3卷。承久年間(1219−22)に成る。禁中抄・建暦御記。順徳院御  抄。
(注)塙保己一(1746−1821)
  江戸後期の国学者。旧姓。荻野。家号、温故堂。武蔵児玉の人。7才で失明。15才 の時に江戸に出て雨富検校(けんぎょう)須賀一(すがいち)(本姓、塙)に入門。のち賀茂 真淵らに国学を学ぶ。優れた記憶力により和漢の学に通暁(つうぎょう)。検校・総検校と なる。幕府保護の下に和学講談所を建て、門下に碩学輩出)。
  「群書類従」を編集、さらに「続群書類従」纂集(さんしゅう)に着手。編著「武家名目抄」 「蛍蠅抄」など。
◆武家名目抄
  鎌倉時代以後の武家に関する名称・品目を職名・呼称・居処・衣服など16部門に分  類し、古書・旧記の関係文を採録した書。塙保己一編。381冊。1821年(文政4年)保 己一の没後、中山信名・和学講談所員らにより完成。