(注)今川義忠(1436〜76)
 室町時代の武将。隣国遠江國守護・斯波義廉(よしかど=生没年未詳)と勢力を争い、寛正6年(1465)侵略に着手。応仁・文明の乱(1467〜77)では、西軍の斯波義廉に対抗し東軍の細川勝元(1430〜73)に属した。文明8年(1476)親斯波の横地・勝間田両氏を破るが、その残党に襲われ遠江國塩買坂(小笠町=現掛川市)で戦死した。
     「日本史広辞典」 P170
 ※斯波義廉(生没年未詳)
 室町期の武将。室町幕府の管領。斯波氏の家督を義敏と争い応仁の乱(1467〜77)の原因をつくった。

(注)今川氏親(1473〜1526)
 戦国期の駿河國の武将。戦国大名今川氏の初代。文明8年(1476)父・義忠の戦死後、家督をめぐり家中に内紛がおきたが、伯父伊勢新九郎(北条早雲)に擁立され家督を相続。明応・文亀・永正年間に遠江を侵略し、三河にも触手をのばした。永正14年(1517)に斯波氏を駆逐し、遠江を完全に征圧。この前後から守護大名からの脱皮をみせ、大永6年(1526)には分国法(今川仮名目録)を制定した。  「日本史広辞典」P169
※今川仮名目録
 1526年今川氏親の定めた法度31条(のちに2条追加)と1253年子の義元の定めた追加21条をいう。東国地方の分国法中最古のもので、訴訟法規が比較的多く、被官知行分の売買や他国人との通婚禁止などを規定している。武田氏の「信玄家法」とともに代表的家法。