(注)相良城について
 相良城は、戦国時代から江戸時代にかけて、平地に築かれた城で、新旧の二
城あった。相良古城は天正2年(1574)天神を降した武田勝頼(1546−82)が、天正4年(1576)相良湊の脇に築き、「高坂弾正の縄張り」と言われている。小規模であったが、勝頼が兵糧を天神城に入れるために築城したものである。その後徳川氏の領有となり天正14年(1586)「相良御殿」として鷹狩りの拠点とした。
宝暦8年(1758)田沼意次が一万石の相良藩主となり、9年後側用人に
栄達、従四位下二万石に加増され、築城を許され、12年かけて安永9年(1780)完成したのが「相良新城」である。
 意次は検分のため4月相良城に来たといわれる。新城は、東西500m・南北450m・三重の堀を巡らし、本丸南西隅に聳える三層の天守閣、建物は「けやきづくり」ではるか沖合から眺められる絢爛豪華な外観はまるで「竜宮城」のようであったという。しかし、意次の老中失脚と共に、殆ど完全に近いほど破壊尽くされ、見るべき遺構はない。ただ相良中学の地続きで、相良側に近い一角に石垣が残っている。通称「仙台河岸」と呼ばれる所で、意次が築城の時仙台藩主伊達重村が寄進した石材で造った石垣である。約2,8m位の高の石垣が、約60mにわたり現存している。
 文政6年(1823)田沼意次の末子で下村藩主田沼意正が若年寄の功によって、相良藩主となり旧相良城二の丸に、相良御役所を造り、後代田沼藩として、明治維新まで三代四十五年間相良藩主をつとめた。