(注)福長飛行場跡… 蟹町    遺構なし、現在田圃と住宅地。
  福長飛行場は、大正8年(1919)福長飛行機研究所の付属飛行場として天竜川の河川敷に作られた。福長浅雄・四郎・五郎の兄弟は浜名郡飯田村(現浜松市大塚町)の出身で、兄の浅雄は、羽田飛行学校に学び、その後千葉の伊藤音次郎飛行場に入門、飛行技術を習得、掛塚に飛行機研究所を創立した。収納庫内に工場があり、大工・鍛冶屋の職人が数人いた。名機「天竜7号」や、日本最初の6人乗り大型旅客機が作られた。飛行場には飛行訓練生が14〜5名がおり、一流のパイロットがこの飛行場より、巣立ち活躍した。飛行家として知られた兄弟は、関東大震災(大正12年=1923)の時には、この掛塚飛行場より所沢間を飛び、通信の確保に活躍した。飛行場の閉鎖後、格納庫は小学校(現竜洋西小学校)の雨天体操場として長い間使用された。