(注)  鶴林山大御堂寺(通称・野間大坊)と源義朝
@由来
 天武天皇の時、役(えん)の行者が草創。聖武天皇の時行基菩薩が再び開基し、弥陀三尊を守置し、阿弥陀寺と称えた。弘法大師は当寺に留錫(りゅうしゃく)、千座の護摩供養を修し、鎮護国家を祈った白河天皇の永暦年間、一山を再建して勅願寺とし、大御堂寺と命名された。親筆の金字の妙典八軸を納められた源義朝公憤死の地で、境内に墓地がある。又縁結びの弁財天が良縁がさづかる。
 建久元年(1190)源頼朝公により守本尊開運延命地蔵菩薩も奉安された。守本尊は定朝仏師作で、はじめ平清盛の母の池禅尼の念持仏であった。
 頼朝十三才の時、平治の乱に敗れて、捕らえられ池の禅尼の命乞いによって助けられ後、天下を治めることが出来た。その時禅尼は地蔵尊を頼朝公に与え、公は父の廟参の時、当寺に納めた。尚、頼朝公相伝の延寿の秘法が当山に伝わっている。
   ◇勅願寺……天皇の発願によって、鎮護国家・皇室繁栄などの祈願のため建てら       れた。文武天皇の薬師寺、聖武天皇の東大寺(総国分寺)・国分寺、国分尼寺      等天皇の創建したものと、既設の寺を指定したものとがある。
   ◇留錫……「錫」は錫杖。行脚中の僧が、一時的に他の寺院に留まること。
 A本尊    阿弥陀如来   県指定重要文化財
         藤原時代の作
         客殿安置  開運延命地蔵  源頼朝公守本尊
 B行事    正月十日閏   特別祈祷会
         毎月七日    縁日
         二月三日    追儺会(ついなえ)
         三月第三日曜日 涅槃会(ねはんえ)
         八月第一土曜日 万灯会(まんとうえ)
 C建物  ○本堂(根本堂)120坪(宝暦4年再建)
        ○客殿(県重要文化財)150坪
            伏見桃山城より移築
        ○悠(ゆう)紀(き)殿(でん)(今上天皇即位悠紀の間)
            京都御所内に建てられた建物の一部を当山に下賜、昭和 昭和4年(1927)10月1日移築。
        ○大門(山門)
            建久元年(1190)源頼朝公により再建。
        ○鐘楼堂 鎌倉五代将軍源頼嗣公寄進の梵鐘あり。
             梵鐘の銘は建長二年(1250)。国の重要文化財。
        ○野間大坊本殿
             伏見桃山城の一部を寛永年間(1624〜43)に移築。
   D寺宝 源頼朝公孝養の図(狩野探幽筆)
 ◆追儺…疫病や災難などを追い払うため、毎年、大晦日に宮中で行われた、宮中の年    中行事の一つ。「鬼を追い払う儀式」中国に始まり、文武天皇(在位697〜707)    の頃に伝わり、後には社寺・民間でも行われた。古くは大晦日に行われたが、の     ちには節分の豆まきとして行われるようになった。
 ◆涅槃会…陰暦二月(現在は3月)十五日は釈迦入滅の日で、各寺院では涅槃図を掲        げ、涅槃会を営む。釈尊の遺徳奉讃追慕のために修する法会。    
   E源義朝公御廟由来
    源氏の総帥左馬頭源義朝公は、京都六波羅合戦に平家に敗れ、東国に向かう途  中、この地の東方野間田上の御湯殿で、家臣長田忠致のために御入浴中誅殺なさ   れしその時、我に木刀の一本なりともあればと、悲痛な一言を残されて最期を遂げら   れましたので、その怨霊のために木太刀を献ずる習わしが出来て、山のように積まれ  ています。木太刀の奉献の方は、すべての願が叶うといわれています。
   Fその他
 ◎織田三七信孝(1558〜83)卿之墳墓
  安土桃山時代の武将。織田信長の3子。通称は三七または三七郎。伊勢神戸氏の  養子となり神戸信孝ともいう。天正5年(1577)雑賀の一向一揆を討ち、更に、同10年 (1582)、四国を征伐してこれに封じられた。本能寺の変後、豊臣秀吉と共に明智光  秀を攻撃。岐阜城主となったが、後相続問題で豊臣秀吉や兄・信雄と争い、翌年柴田  勝家と呼応して岐阜で兵を挙げたが、織田信雄に敗れ逃走の途中自殺した。
 ◎池禅尼(生没年未詳)の塚
  平安時代末期の人。藤原宗兼の娘。平忠盛の後妻となり、家盛・頼盛を産む。六波羅 池殿に住んだので池禅尼という。平治1(1159)平治の乱(保元・平治の乱)で敗れた 源頼朝は、翌年平清盛方に捕らえられ、あわや殺されるところ、清盛の義母にあたる池 禅尼の計らいで一命を助けられ、伊豆に流された。禅尼の亡き子・家盛に似ていたゆえ の助命という。この縁により平氏一族西走の時も、都に残り頼朝の庇護を受けた。
 ◎平判官康頼(生没年未詳)の墓
   平安末期の公卿・北面の武士。官人。検非違使尉となり、平判官と呼ばれた。治承 元年(1177)鹿ヶ谷(ししがたに)の俊寛の別荘で平家討伐の謀議企てたかどで、俊寛 ・藤原成親らと共に鬼界ヶ島に流され、翌春赦免。その後出家。著書に説話集「宝物集 」。
 ◎鎌田政家(1123〜60)の墓
  正清・正家とも。平安後期の武士。母は源義朝の乳母。通称鎌田次郎(二郎)、左兵 衛尉。義朝の家人として保元・平治の乱に従軍。平治の乱の敗北後、義朝と共に妻の 父・長田忠致を頼り尾張國に下ったが、忠致により謀殺され、政家も忠致の子・景致に 殺された。源平合戦で活躍した鎌田盛政・光政兄弟は政家の子供である。
 ◎血の池
  平治元年(1159)長田忠致親子により討たれた義朝公の御首を洗った池。国家に一 大事があると、池の水が赤くなると言い伝えられている。