(注)5,一里塚について
 江戸時代の主要街道の両側に一里(36町=約4km)ごとに築かれた塚で、路程標の役割を果たした。その起源は古代中国にあり、日本では戦国時代末期(豊織 期)にはすでに存在していたが、慶長9年(1604)徳川家康が江戸日本橋を起点として、東海・東山・北陸の3街道に距離の目印として、1里ごとに5間(約9m)四方の塚を築かせ、塚の上には榎や松を植え旅行者に便宜を与えた。幕府はのち3街道以外にもこの制度を広め、諸藩もこれにならい脇街道(脇往還)に築いたこともあったが、その後改修に熱意がなく次第に廃壊し、天明年間(1781〜89)頃には、原形を失うものも多かったという。明治以後、里程標の設置、道路の改修、交通機関の発達により次第に失われ、現存するものは少ない。一里塚は旅の目安ともなったが、度量衡統一の目的もあったと考えられる。