(注)7,二つ御堂
 @わが町文化誌「美し可き里」の記述  P168〜70
 現在の北堂は道路の拡幅などにより、昭和30年(1955)に改築、南堂は昭和12年(1937)に新築。北堂には阿弥陀如来・地蔵菩薩・毘沙門天が、南堂には薬師如来・不動明王・大日如来を安置している。
 創建年代は、天治2年(1125)頃と伝えられるが諸説有り定かではない。室町時代末の災害や戦国時代の兵乱により、御堂の損傷はげしく、天正7年(1579)に山口権右衛門は北堂一つにして再建、破損していた仏像の首を腹籠としてとした新しい仏像を作ったとされている。
 江戸時代には、「二つ御堂」は北堂が一つであったため「分間延絵図」には、道の北側に「二仏念仏堂」として記され、南側には堂宇は描かれていない。
 その後も度々御堂や仏像の修理がなされ、昭和12年(1937)北堂にまとめられていた南堂も新しく立て直され、文字通り二つ御堂となった。北堂の地蔵菩薩は咳を直すと云われ、昔は参拝者が多かった「咳が治ったら、わら馬を作って差し上げます」と云ってお祈りし、咳が治ったらお礼にわら馬を供えたという。
 A「遠江國風土記伝」の記述    復刻版 P90
 「嘗て聞く、藤原の秀衡京都に侍りて疾す。其の妾(あらめ)はみちのおくの國に在てやまひすときゝて上りく、此処にて京の使にあひて、ことのよしをとへば、秀衡すでにみまかり給ひぬと妖言(およづれこと)いひければ、妾悲しみてこゝに御堂を建て置てまかれり、その後ひでひらやまひ直りて東国へ下る時、ありし事どもきゝ渡りて、あはれがりて、おなじ御堂を建てそへしとなむ、郷人記に日ふ、創建より明和7年(1770)まで、六百五十二年を歴たりと」
B「東海道名所図会」の記述 復刻版 上巻  P455
 「東若林村にあり。むかし奥州伊達秀衡の室、上京のときこゝに建立すい。本尊阿弥陀、薬師の二仏、長(みたけ)弐尺五寸許(ばかり)」