(注)1、気賀 林(1810〜83)
 地域開発事業家。引佐郡気賀村(浜松市北区細江町)出身。幼名賀子治。通称林右衛門、半十郎、宜徳、号淡庵。初め岩井姓、明治4年(1871)気賀林と改めた。気賀村の旧家竹田氏に生まれた。のち気賀家の養子となった。領主旗本近藤氏の御用達を務め、近藤氏の経済的援助にも貢献した。
 浜名湖北特産の琉球表(畳表)の販売で大きな実績をあげ、西遠地方の豪商としても台頭。明治に入り地域開発や金融事業に尽力。地域開発の第一事業は堀留運河の建設であった。
 1869年(明治2)浜松宿を訪れた駿河商法掛の矢村小四郎と青木錠一郎に浜松宿と浜名湖を結ぶ水路の開削を建議、これが端緒となり1971年(明治4)堀留運河が完成した。建設事業にあたって450両を出資した。
 地域開発第二事業は三方原の茶園造成で、この事業も藩当局に対する気賀林の建白によって着手され、普請方と士族移住の諸世話下掛を命ぜられ、1873年(明治6)には浜松県より三方原開拓園長に任命された。開拓園は俗に「百里園」と呼ばれた。
 第三の事業は第二十八国立銀行の設立。国立銀行を浜松に誘致する計画を立てた気賀林は、井上延陵(1816〜97)などと静岡県下で最初の国立銀行を発足させ、最高出資者として副頭取に就任した。
 遺徳を讃えた「気賀三富翁之碑」が1891年(明治24)建碑された。撰文は斯界(しかい=この分野)の重鎮中村正直(1832〜91)、題額が井伊直憲、碑文の文字は日下部鳴鶴(1838〜1922)。             「静岡県 歴史人物事典」 P169