(注)3、潮見観音ご縁起    「寺院案内」パンフレット
 この観音様は高さ60糎ほどの一木彫と聞く。凡そ340年前の承応3年(1654)3月十日、漁師の網にかかって海底から出現せられた。伝説では、その前7日7夜にわたって海が煌々(こうこう)と輝き、波の音も常と変わったと言う。網元の船頭伊三郎を始め、漁師たちはひどく驚き、早速蔵法寺へ運んで和尚に相談した。当時の住職は第四世明州韓察大和尚であったが、大いに喜んでとりあえず本堂内に安置し、盛んなご供養の法会(ほうえ=法要)を開いた。この尊像は種々ある仏像の中でも、聖観音(しょうかんのん)と呼ばれる御像である。初め西の山門脇に安置され、暫くたって境内の「うないの松」のそばに観音堂を新築して、お祀りすることになった。
 聖観音ご出現から54年後の宝永4年(1707)10月4日、遠州灘一円.に大地震があり、この津波のために、白須賀・荒井・舞坂の各宿場を始め、海岸の漁村の殆どが洗い流されてしまった。
 その前夜、即ち十月三日の夜、白須賀宿に泊まっていたお大名があった。備前岡山三十一万五千石の池田綱政(1638〜1714)公で、真夜中に観世音菩薩が夢枕にお立ちになり、「大危難あり、早々にこの地を去れ」とお告げがあった。夜中ではあったが、殿様が早速老職を呼んでこの話をなさると、不思議なことに、老職も全く同じ夢を見ていた。
 そこで夜の明けるのを待ちかね、十月四日の朝宿場を早立ちした。殿様のお行列が漸く潮見坂を上り切った頃、突如として大地震が起きた。有名な「宝永の大地震」がそれであった。本陣は流された。
 九死に一生を得た池田侯は帰国後、岡山城内の慈眼堂に白須賀観音をお祀りになり、以来280年間、岡山と当寺との間の法縁(仏縁=仏の引合せ)連綿として続いていて、現在は池田動物園内に祀られている。
 潮見坂「うないの松」の傍らにあった観世音は明治9年(1876)に再び本堂内陣にお戻りになり、今日に至っている。