(注)4、池田綱政(1638〜1714)
 岡山藩主・池田光政(1609〜82)の嫡男として江戸藩邸に生まれる。寛文12年(1672)父・光政の隠居に伴い第五代岡山藩主(1617〜1714)となる。(※岡山市のホームページ「歴代岡山城主では第六代としている。
 初め父・光政が登用していた津田永忠らを藩の中枢から追放し、政治路線の変更を試みたが、延宝元年(1673)と翌年には洪水と凶作に見舞われ領民は疲弊し藩財政は深刻な危機に陥った。その上延宝3年(1675)禁裏造営手伝い(御所造営の課役)を命じられ、藩財政は一層悪化した。
 このため、綱政は藩政改革を決意し、一度左遷させた津田永忠を重用するとともに、服部図書ら有能な人材を登用して財政再建に着手、緊縮財政を進めると共に、藩札発行などを実施した。
 また年貢増収を図るため、沖新田・幸島新田の開発(児島湾の干拓)を行い、新田への感慨や洪水対策としての倉安川・百間川開削し、生産力の増大、治水事業に多大な業績を残した。
 また信仰心も篤く、吉備津彦神社の再建や菩提寺・曹源寺を建立した。元禄13年には日本三名園(水戸・偕楽園、金沢・兼六園)の一つに数えられる御後園(現在の後楽園)を造営した事でも知られる。
 正徳4年(1714)77才で没し、法名・曹源寺殿湛然徳峰大居士墓所は岡山市円山曹源寺内池田家墓所に葬られた。
  「歴史読本」2007年6月号 P164
   岡山市のホームページ「歴代岡山藩主」
(注)児島湾
 岡山県南部児島半島の東部にある湾。近世初期は面積約120kuであったが、現在では大部分が干拓され、残りの水域も西部は淡水化して「児島湖」となっている。
 江戸時代、岡山の池田藩によって干拓工事が進められ、明治初年には約半分(70ku)に縮小した。明治以後、大阪の藤田組によって干拓が進められ「藤田村」が形成された。  なお第二次世界大戦後は、国営により干拓が進められた。干拓地は機械を早くから導入した先進農業地として知られている。旧児島湾沿岸には妹尾(せのお)八浜(はちはま)などの漁村が発達している。
     「ブリタニカ国際大百科事典」