(注)広厳城山潮海寺(真言宗) 菊川市潮海寺
                  JR菊川駅東北1,5km
 @由緒
   奈良時代、聖武天皇(701〜56在位724〜49)の頃、行基により開創された古刹。高野山釈迦文院の直末。平安時代に坂上(さかのうえの)田(た)村(むら)麻呂(まろ)(758〜811)の帰依により寺領が寄進された。
   往古寺領3000石、寺域に75坊を数える名刹として知られていたが、兵火により焼失した。当時の伽藍の規模は残された22の礎石と布目瓦により偲ばれるのみである。
 A仁王門 現地説明板
    広厳城山潮海寺山門  菊川町指定文化財
   潮海寺は古代に薬師信仰を中心として、天平年間(729〜49)
  に僧行基によって創始され、宝亀11年(780)に至り、寺堂が建てられたと伝えられている。平安期には幾多の名僧・高僧が居たことが知られ、寺領も広く河村の庄(河城堀之内加茂六郷掛川市影森金谷町西深谷)一円に勢力を張っていたとみえて、牧ノ原の仁王辻は領地の境といわれ、ここにもと仁王門があり掛川市成滝の大門縄手は潮海寺の西門のあった所で、天保年間(1830〜44)まであったが、取り壊された事が記録に残されている。(礎石の一部を潮海寺に保存)。
   仁王門は西方沢田の山内弥作時盛(内山家の時家より15代目)によって宝永2年(1705)9月に再建され、この時、仁王像も倉沢の山内徳左エ門によって彩色が施された。大工は西方村の藤原朝臣伊藤伝三郎漆師は山名郡袋井町の門屋与次兵エで代官は駿河の守屋助次郎が支配の時の事である。ちなみに薬師堂も元禄7年(1794)に同じく山内氏の弥三右エ門時春(11代目)によって再建され、本尊の彩色も同氏の母によってなされている。
   従来仁王門は、茅葺きであったが、屋根替えの際に瓦葺となった事は残念であるが、町内に残る唯一の仁王門として文化財として指定されている。
 B薬師堂金剛院…かつての本堂の跡に建つ。仁王門より600m先
  ★朱塗り、内陣に薬師如来・四天王・十二夜串を安置
  ★本尊薬師如来は高さ33cmの坐像
 C学頭坊…薬師堂の南200m
 D祭事…潮海寺八坂社祇園祭り
   水と太陽と稲穂の神々が3年ぶりに対面し、疫病退散と秋の豊かな実りを祈る。「神輿渡御」の行列に始まり、クライマックスは仁王門の石段を登り下る光景は圧巻。