(注)江間加賀守時成について
今川義元(1519−60)が桶狭間に討死してから、嫡男氏(うじ)真(ざね)(1538−1614)が跡を継いだが、その力量に於いて父義元ほどの人物ではなかった。そのため徳川家康の自立、武田信玄の遠江侵攻の動きは、今川方の諸将の間に次第に動揺が拡がっていった。
このような動きの中で、遠江見付城(磐田市)の堀越氏延・、遠江井伊谷城主井伊直親(子供が直政=1561−1602)が今川方により殺された。当時、今川の家臣、引馬城主飯尾連龍は今川氏に敵対行動をとっていた。永禄6年(1563)10月、氏真は連龍と講和したが、疑いは晴れず8年12月駿河府中に呼び寄せ謀殺。
引間城では、連龍の老臣江馬安芸守泰(やす)顕(あき)と江馬加賀守時成が城を守り、今川と抗戦し、家康の軍門に下り来援を求めた。しかし当時の家康には救援するだけの力がなかった。
永禄11年(1568)12月6日、武田信玄(1521−73)は甲斐府中を出発し、駿河に向かい、13日には今川氏を破り駿河に入った。氏真は遠江懸川(掛川)に逃走する。(家康に攻められ降伏。のち北条氏政・家康に養われ慶長19年(1614)12月28日死去)家康も信玄も殆ど同時に遠江に浸入した。
引間城は飯尾連龍の老臣江馬安芸守康顕と江馬加賀守時成が守っていたが、康顕は信玄に味方しようと時成を殺害、康顕も時成の家臣に殺された。2人の家臣を失い引間城は連龍の夫人「お田鶴の方」が守ったが。家康の攻略をうけ、潔く侍女と共に城を出て戦い自刃したという。→眞山青果「浜松城炎上」
「椿姫観音」←家康の散歩道
              市内成子町「東漸寺」→連竜の五輪塔
(注)「江馬殿松附江馬加賀守の屋敷及び墓地」 「浜名郡誌」 P97〜8
   遠江風土記伝に「(上島)光福寺、號赤池山。門前者赤池、背有江馬加賀之墓所、俗號江馬殿松。……、」と。曳馬拾遺に「此の松は、今濱松の北一里を経て、赤池村の薬師堂の上に在り。昔、飯尾豊前守乗龍の侍、江馬加賀と云ひける人、早出村といふ所に住みけるとなり。然るに乗龍、義元の為に、永禄八とせ(1565)に討たれける時、此の城あるじ無くなりにけれども、江馬安芸・江馬加賀、城を堅く守り居けるに、永禄11年(1568)正月十八日、安芸は秋山伯耆信友に通じて武田に頼らんとし、加賀は徳川氏を頼み奉らんと、互いに争ひて、安芸守、加賀守を討ち、また
加賀守の侍小野田彦右衛門、安芸守を殺す。去れば、赤池村は、江馬加賀
の知りける所なるによりて、やがて光福寺の山の上に埋めてけり。其の塚
の印とて植え置きし松なりければ、世の人、之れを唱えて「江馬殿松」と
いへり。此の光福寺は、昔は禅宗なりしを、中頃より天台宗とはなりにけ
るといへり。昔は斯ること数多あることなり」と。赤池禅師参拝所由来に「其の当時地方管領の江馬加賀守霊蹟の滅却するを憫(びん)然(ぜん)(あわれむべきさま)に思召され、嘉(か)吉(きち)年間(1441〜44)御再建記念のため、本堂裏手未申(ひつじさる)(南西)の方山上に、手づから松を植え置かれ、「御手植江馬の松」と称し云々。」とあり。上島の古老曰く「昔江馬殿屋敷は早出にありしが、此の所より自己の弓の腕試しするとて、三方原に聳え立つ大松に向かって矢を放つに、ねらい違わず松を射たり。是れより之れを「江馬殿松」と云う。」と。以上の諸説により、江馬屋敷が早出にありしことは事実らしく、現に近頃まで其の井戸存し、而も世にまれなる大井戸なりきとは、里人の知る所なり。而して江馬の墓は薬師堂の西南の山にありて、近年其の後裔碑を建てたり。其のもとに十数年を経たる松に、「三代江馬の松」と書せり。