◆近藤貞用(1606〜96)  号を語石
   金指近藤氏の祖。秀用の子。徳川頼宣に属し大阪冬の陣(1614)に参加。元和5年(1619)頼宣に従って、紀州(和歌山県)に赴いたが。翌年父季用に召還され、三千余石を受けた。
  明暦3年(1567)の大火には、抜群の功績により幕府から賞された。特に文武を好み、旗本奴、町奴等の暴挙を征したことは有名である。歌舞伎の幡随院長兵衛の芝居に出てくる近藤登之助としても知られる、旗本退屈男のモデルでもある。
 また、領内においては開墾・植林・放牧・製紙等の事業に力を注いだ。道路の整備、金指に市場を開設、六所神社の勧請や、黄檗宗の独湛禅師を招いて初山宝林寺を創建するなど、土地の殖産興業、民衆教化に貢献した。元禄9年2月2日金指陣屋で病没。91歳。初山宝林寺に葬る。「棲雲院語石性訥居士」。
(注)旗本近藤家(五近藤)について
  近藤家は、清和源氏の流れをくみ、応永の頃(1394〜1428)三河八名荘宇利郷の郷士近藤左衛門尉乗満から4代目の孫・乗直・忠用は徳川家康の祖父松平清康に仕えていた。忠用の子庸用(のぶもち)は永禄11年(1568)家康の遠州進攻に際して、井伊谷三人衆(都田の菅沼忠久・井伊谷の近藤用庸・瀬戸の鈴木重時)の一人として、道案内をし、その功績により家康より「康」の一字を賜り「近藤石見守康用」と改名した。康用の子秀用も石見守に任ぜられ、慶長19年(1614)には上野國(群馬県)や相模國(神奈川県)で禄高一万五千石を与えられ、諸侯の列に加わったが、のち郷里に替地を願って井伊谷に帰り,敷智・引佐・榛原の各地を領有支配した。
その後、願い出て指定に分与して漸次独立させたので、石岡・金指・気賀・井伊谷・大谷のいわゆる「五近藤」が生まれた。即ち、秀用の弟(用継)が家康に召し出され、相州(神奈川県)の五百石を拝領し、のち石岡花平の三百石を追加分知して「石岡近藤」となり、秀用の子季用が慶長5年(1600)井伊谷において三千五百石を賜り、のち五千四百余を分知して「金指近藤」となった。
 秀用の二子用可(季用の弟)が元和元年(1615)父秀用の領地である引佐・長上・麁玉・敷智の四郡のうち、五千石を分知して「気賀近藤」となり、秀用の三子用義(用可の弟)が井伊谷五千石を知行して「井伊谷近藤」となった。 「気賀近藤」の用行(用可の子)Hさ長男であったが庶子であるため「気賀近藤家」を用治に譲り、寛永元年(1624)用治の采地より二千石を分知して「大谷近藤」となった。