注)岡田良一郎(1839〜1915)
  佐野郡倉見村(掛川市)の大地主・政治家・報徳運動家。岡田佐平治の長男。14歳から4年余、日光の二宮尊徳(1787〜1856)の下で教えをうけ報徳主義を遠州で具現するよう活動。1875年遠江報徳社社長に就任し、36年余その地位にあった。
 政治面では、静岡県民会議長、佐野・城東郡長、静岡県会議員をへて1890年衆議院議員。1897年衆議院議員を最期に引退。
 実業面では、資産貸付所総括、二俣紡績会社設立事務取扱、掛川銀行頭取、資産咽喉取締役、掛川信用組合長等を歴任した。
 教育面では、自邸内に私塾「冀北学舎」(きほくがくしゃ)を設立し子弟の教育にあたった。
 寺内内閣の文部大臣、貴族院議員、勲一等桐花大綬賞を受賞した岡田良平は長男。二男の一木喜徳郎は、大隈内閣の文部大臣、内務大臣、貴族院議員、男爵、枢密院議長、宮内大臣を歴任、大勲位菊花大綬賞を受賞した。
    「静岡県歴史人物事典」  P51,P117