(注) 伝説「お経に化けた鯛」 「あらい 昔かたり」P6
  室町時代、徳政一揆・土一揆などが起こり、民衆の生活は混乱と困窮をきわめていた頃の話。泉町の本果寺の開祖速誠院日才大徳は、日夜の布教の疲れと食糧難から、すっかり衰弱しついに病臥(びょうが=病気で床につくこと)の人となった。
  永徳3年(1383)に鷲津の本興寺が真言宗から法華宗に改宗したが、新居の末寺(本果寺になる前、寺名不明)は、なかなか改宗せず、法論往復七ヶ年の末、元中7年(1390)やっと納得して、法華宗本果寺にしたという根性の僧・日才大徳であった。
 さすが日才大徳も疲労と病気には勝てず、消沈の日々を送っていた。気の毒に思った信者たちは、師匠の身に精をつけるため、白身の魚を食べさせるように小僧にすすめた。
  しかし、生臭物(なまぐさもの=生臭いもの、すなわち魚鳥や獣類の肉の類)を食べることが許されない寺のことゆえ、小僧は困ってしまったが、医者に見放され、日に日に衰えてゆく師匠を思うにつけ、背に腹は変えられぬと、信者の勧めに従うことにした。心やすい信者に頼んで、小僧は鯛をわけてもらい風呂敷にくるんで持ち帰り、師匠に給仕するうち師匠の病状も快方に向かった。
 ところが、意地悪な猟師がこれを聞きつけ、小僧を困らせてやろうとあとを追っかけ、こっそり庫裡の格子窓から覗いてみると、なんと風呂敷包みの中から出てきたものは、お経の本ではないか。漁師は自分の目を疑い次の日仲間2〜3人と一緒に後をつけて覗いてみたが、やはり風呂敷から出てきたものはお経の本である。一緒に覗いた連中も顔を見合わせて首をひねった。たしかに鯛を包んだところを見たのに、目の前の小僧はお経の本をぺらぺらめくっているではないか。
 法力によって小僧が鯛のコケラ落しをしている姿は、意地悪漁師の目にはお経を読んでいる姿としか、見えなかったというわけである。
 仏の加護によって日才大徳の病は、すっかり元気になて、再び布教に精を出し、文安元年(1444)8月19日、高寿(幸こうじゅ=高齢)で没するまでカクシャクとしたものであったという。 鯛に救われた日才大徳は、この恩に報いるため、海上安全・大漁祈願をしたという。今も大漁のお礼に奉納された石の洗水桶が残っており、その名残をとどめている。