1姫街道について
1姫街道について

2連尺町〜三組町

3鹿谷町〜三方原追分
(1)姫街道とは
 一般には東海道の脇往還である本坂通をさすが、姫街道と称する道は各地にあり、いずれも本街道の脇道や裏道である。本坂通は東海道の今切渡を迂回する浜名湖北岸の道筋で、古代の一時期は東海道として指定されたこともある。
 道筋はいろいろあるが、1764年(明和元年)浜松宿から分岐して御油宿で合流する道筋が、道中奉行の管轄となった。途中には気賀・三ケ日・嵩山(すせ)の三宿があり、気賀には関所があった。
                 「日本史広辞典」P1813
★浜名湖の今切渡と新居の関所を嫌う者が、見付または浜松から浜名湖の北岸を迂回して本坂峠を越え、御油または吉田に出た東海道の脇往還の一つ。
(注)東海道浜名湖の今切渡しは、舞坂〜新居間の1里(約4km)の渡船であったが、この今切渡しを利用しない場合は、陸路を浜松から気賀の関所を経て、本坂峠(標高330m)を越え、嵩山から御油または豊橋に出て東海道に合流した。この脇道を婦人が多く利用したのでこの称があるという。脇海道であったが多くの人々が往来したため、幕府は道中奉行の支配下においた。
                  「ブリタニカ国際大百科事典」
(2)姫街道の起点・終点
        磐田道    天竜川の渡し
東海道見付宿……池田宿………中野町……安間村……浜松宿

ひくま坂(現高町の坂)……名残番所……三方原追分……気賀宿

三ケ日宿……嵩山宿……和田の辻……当古……東海道御油宿

※安間………市野………三方原追分
※和田の辻………東海道吉田宿

(3)「姫街道」の名称の使用時期
  ・明和元年(1764)9月より、公用道路として認可。
  ・公式街道名
   「本坂通」(ほんざかどおし)…江戸幕府道中奉行所
     「本坂通宿村大概帳」=天保年間(1830〜44)の調査記録
   「本坂往来」…嘉永年間(1848〜54)の「浜松城下絵図」
   「本坂通り」…旅籠町「平右衛門記録」
 ◎一般には「本坂通り」(ほんざかどおり)又は「本坂道」(ほんざかみち)
 ◎「本坂通」の名称は、遠江と三河の国境(くにざかい)の「本坂峠」(標高326m)の山越えをしたことから、名付けられた街道名。
 ◎「姫街道」の名称を使用した記録
 ◇「西遊草」(岩波文庫)清河八郎著 安政2年(1855)
 「此所は秋葉山(あきはさん・別称あきばさん・あきわさん)へ往来の宿にて、
往来もややあり。且昨年よりして、大名も新井を通らずまま此処より上
下するありとぞ。すべて「御姫様街道」と名付けて、格別難儀にもあら
ざる道なり」
◇安政3年(1856)の絵図
 「浜松宿を経て追分に至る道を姫街道、安間から市野をへて追分まで
を市野道」
◇「東海道五十三次勝景」五雲亭貞秀画 万延元年(1860)
 「東海道五十三次之内浜松順路並姫街道木賀遠望」の表題の浮世絵
◇「秋葉山参詣道程図」道中案内のパンフレット
 「姫様街道」の名がみえる。
  このようにかなり「姫街道」の名称は定着していた。
◎「本坂通」が「姫街道」と呼ばれるようになったのは、明治になって当時の大日本帝国地理測量部(現国土地理院)が、明治22年(1889)発行の「二万分の一」の地形図に「姫街道」の名称を記入したことにより認証された。

(4)各地の姫街道
 @中山道の碓氷峠の関所をさけている「下仁田道」…女街道・姫街道
 A千国街道(松本市〜糸魚川市)…姫街道
 B美濃道(東海道の付属の街道)…姫街道?