2連尺町〜三組町
1姫街道について

2連尺町〜三組町

3鹿谷町〜三方原追分
(1)本坂通起点(浜松宿)…高札場脇
 @高札場跡(連尺町・谷島屋書店前)
         「現地説明板」
   「この付近の車道中程に柵で囲い、柱を立て高札を掲げた高札場がありました。城下・宿場の人々に法令や犯罪人の罪状などを周知させるために書かれた木札を、考察とか制札といいます」
                   浜松市
                   浜松市観光協会
谷島屋書店前の「説明版」 書店脇の「高札場跡」の石柱

(参考)島崎藤村の「谷島屋書店」由来  「現地説明板」
    昭和13年(1938)が古風な土蔵造りから洋風の近代店舗に生まれ変わり、文豪島崎藤村(1872〜1943)の手になる大文字が大理石に刻まれて店頭高く掲げられました。
    この文字について藤村は「筆を執るまでに永い時間を費やしたが、ある朝大木のたたずまいを見て心がきまり、短い時間で書き上げた」と語れました。
    それから57年後、戦火によって砕かれましたが、昭和47年(1972)藤村生誕100年と谷島屋創業100年を記念して、遺された写真により縮尺復刻したものです。
    島崎藤村の「簡素」な風格をよく伝えています。

 A浜松城大手門跡(元城町) 
   「現地説明板」
  この付近の道路中央部に、浜松城の正門つまり大手門がありました。
南面する間口8間(約14,6m)奥行4間(約7,3m)の瓦葺の建
物で常に武器を備え、出入りが厳しく取り締まられていました。
                    浜松市
                    浜松市観光協会

     大手門跡

 Bひくま坂(現高町の坂) 
 「曳馬捨遺」…「ひくま坂は、浜松城の南西の方向にあり、三方原に通ずる坂」とある。
  戦前は石畳の坂であった。石畳みの一部は「浜松城」と「中央図書館」
上り口に移され現存する。
「ひくま坂」上り口

(参考)蓮華寺(紺屋町) 高町の坂を進み2番目の交差点を左折、10m先右
    「蓮華寺由緒」  「現地説明板」
   玩照山蓮華寺 紺屋町に在り真宗大谷派京都東本願寺末。本尊阿弥陀如来。境内251坪(官有地・第4種)
  【由緒】
   寺記に云ふ。当寺祖先は徳川家康公譜代の臣鳥居四郎左衛門忠広也。
   元亀3年(1572)12月22日、味方原合戦の節、忠節を抽んで血戦終に戦死す。忠広の室薙髪(ちはつ=落飾=剃髪=頭髪をそること)
   し、則ち蓮華院妙光禅尼と号す。其の後遺骸を屋敷地に収む。因って右の地所を請ひ受け、墓所の傍らに小庵を創造す。妙光尼親戚の者を養ひ顔西と改め寺主とす。慶長中本願寺第一世教如法王に帰依し、寺号を授けらる。       (浜松市史)
   竜華寺のはじまりは、徳川家康(1542〜1616)の家臣であった鳥居四郎左衛門忠広が、元亀3年(1572)の三方原合戦で戦死し、その妻が剃髪し菩提を弔うために、庵を結んだのが始まりとされる。また三方原合戦で戦死した無縁の武士達の菩提を弔ったものである。蓮華寺は家康とかかわりも深く、家康がその水を飲んだとされる井戸が昔はあったが、今はなく現存しないのである。しかしながら家康と関係があったとされる芭蕉の句碑が今も現存しているのは、当寺を偲ぶ結津のものである。
    芭蕉・八九間の句碑
      「八九間そらで雨降る柳哉」  はせを
   現在の納骨堂は以前は無縁の墓を祀っていた処であるが、無縁の方々だけでなく、檀信徒の方々のお骨も納めることができるよう、平成14年(2002)に新しく整備されたものである。
      蓮華寺第二十世住職   鳥居真澄
蓮華寺本堂 芭蕉の句碑

 (注)五升庵蝶夢と鳥居柳也
 (注)竹村方壺
 (注)竹村尚規
 (注)竹村広蔭
                
 C藩校の跡(高町)
  幕末には水野藩経誼館(けいぎかん)・井上藩克明館(こくめいかん)がおかれたが、明治に入り浜松県庁(明治4年〜9年)、浜松総合庁舎をへて、現在は旭町より移転してきた妙遠山法雲寺(日蓮宗)が建っている。もとは総合庁舎の東北隅にあった若槻礼次郎書、昭和6年(1931)
 建立の記念碑「偉大也協力一致之功」が道路沿いの小公園に建っている。都市計画事業(道路拡幅)の成功を記念して建てたものである。
法雲寺本堂 水洗い地蔵
「偉大也協力一致の功」の碑

 (注)藩校(藩黌・藩学)
 (注)水野藩の「経誼館」
 (注)井上藩の「克明館」
 (注)若槻礼次郎
                                             
 D浜松監獄の跡(高町)
  法雲寺の南。明治5年(1872)〜大正7年(1918)まであった。清水次郎長の子分・小政が獄死したことで知られる。墓は板屋町の真道山大聖寺にあったが、現在は都市計画に伴う道路整備のため移転した。
  小政は本名は吉川冬吉といい、新町の桶屋由蔵の長男であった。
浜松監獄跡

 (注)浜松監獄

 E半僧坊浜松別院正福寺(臨済宗方広寺派)
 ・明治16年(1883)11月、芳川村老間正福寺を現住所に移転したもの。
 ・織田利三郎(1857〜1923)彰徳碑(「図書館だより」)より
   仏塔のように見えるが、織田利三郎の顕彰碑である。利三郎は、安政4年(1858)名古屋に生まれたが、子供の頃,庄内のお寺の織田家に養子として迎えられた。明治維新を機に浜松の高町の坂に広大な土地を求め、正福寺としたが、利三郎は僧職を離れ玩具屋を開いた。
  その後、神明町に引っ越し、人形も合わせて売る大きな玩具店としし、養父から「かすみや」の屋号をもらった。その後商売は家族や店の人々にまかせ、浜松地方の産業経済の発展に貢献した。
 (注)織田利三郎
半僧坊別院正福寺入口 正福寺 本堂
織田利三郎顕彰碑 織田利三郎像

○「馬車の立場跡」
  明治29年(1896)乗合馬車が登場し、気賀・金指方面への馬車は、半僧坊付近からスタートした。当時、乗合馬車は宇布見・掛塚・二俣・笠井・中ノ町方面にも出ていた。
     「浜松の道・坂・橋〜なまえの由来〜」  P60

 F侍屋敷(浜松市高町)
  高町の坂から鹿谷町に向かう、国道257号線の両側が侍屋敷にあたるが、民家が密集し遺稿は見られない。
  宝暦年間(1571〜64)の「浜松御城下略絵図」によると、敷知郡浜松西高町・東高町一帯は浜松藩の侍屋敷であった。
   西高町…北が名残(布橋)に接する。 
   東高町…東が紺屋町に接する。

G神明宮  (浜松市三組町22−1
 ・祭神  天照皇大御神」(あまてらすすめらおおみかみ)
      豊受大神(とようけのおおかみ)
 ・由緒   創立年代不詳なれども、和銅元年(708)6月15日再建の棟札有りたり。往古肴町と神明宮を境する坂の上に鎮座せし社にして、今に至るまでに右の坂上を「神明坂」とも「宮坂」ともいへる旧跡に小社あり。此れを合併し同宿紺屋町、北浦袋町の杉林の小社に遷座、其の後また敷知郡蜆塚村の宮山の「岡ノ神社」へ遷座、其の社地には「山ノ神」を奉斎しあり。此の神の御分霊と共に現在地に鎮座す。昭和20年(1945)4月の空襲により焼失し再建立す。
             「浜松市神社名鑑」 P61
 ○常夜燈…「安政二卯年(1855)九月建立」 高さ1,7m
 ○手洗石…「安政六己未(1859)正月吉日」
神明神社入口 拝殿
手洗い石

 H秋葉神社 (三組町)
 ・祭神 迦具土神(かぐつちのかみ)他17柱
 ・由緒 徳川家康が犬居秋葉山に建立後、天正2年(1574)浜松帰城と共に、叶坊浄全が家康の命により、犬居の秋葉神社より勧請し、現在地に移築。朱印高3石。
   昭和20年(1945)空襲により社殿諸建物(手水鉢除く)悉く焼失、昭和23年鳥居・25年社務所・27年社殿・43年社殿改築・47年手水舎改築・48年参集殿新築竣工し現在に至る。
 ・その他
  ○奥平信昌邸跡…遺構なし
  ○常夜燈…浜松城主の寄進
   ・吉田城主松平豊後守資訓奉納    享保15年(1730)
   ・丹波亀山城主青山因幡守惣家中奉納 延亨4年(1747)
   ・三州西尾城主松平和泉守奉納    享和元年(1801)
   ・三州西尾城主松平和泉守奉納    文化7年(1810)
秋葉神社赤鳥居 奥平信昌邸跡の木柱
奥平信昌邸跡の石柱
鳥居右側の常夜灯 鳥居左側の常夜灯
秋葉神社拝殿 参集殿

 (注)奥平信昌と加納御前