3 潮見坂上の石碑群
 東海道・白須賀宿
 
1 白須賀宿概要
 (1)宿内人別
 (2)宿内惣家数
 (3)宿場の長さ
 (4)白須賀宿について
 (5)白須賀宿を襲った津波

 2 火鎮神社〜おんやど白須賀
 (1)火鎮神社
 (2)元町の一里塚・高札場跡
 (3)蔵法寺
 (4)潮見坂
 (5)潮見坂公園跡
 (6)おんやど白須賀
 
 3 潮見坂上石碑群〜火防樹 
 (1)潮見坂上石碑群
 (2)十王堂
 (3)曲尺手
 (4)夏目甕麿邸跡
 (5)庚申堂
 (6)火防樹
 
 ※参考にした本等
 

 

 3,潮見坂上の石碑群〜火防樹
 (1)潮見坂上の石碑群 「現地説明板」
  ここ潮見坂上には、明治天皇が明治元年(1868)十月一日にこの地で休憩されたのを記念に建てられた明治天皇御聖跡をはじめ、白須賀出身の国学者夏目甕麿(1773〜1822)と息子の加納諸平(1806〜57)、正直者の藤屋五平、義僕平八郎らの顕彰碑や忠魂碑が立てられています。













  義僕平八郎の碑         藤屋五平の碑












  夏目甕麿の碑        加納諸平の碑

 (注)7,夏目甕麿と加納諸平
 (注)8,藤屋五平と義僕平八郎
 
 (2)十王堂









 蔵法寺の管理。創建年代不明。宿場所替えの宝永5年(1708)にほかの諸寺院と共に元宿から移転したと伝えられる。お堂には、この地方には珍しく鐘楼・梵鐘もあって、旧盆の期間を通じて鐘の音が白須賀のまちに響き渡る。無住となって数十年が経つ。

 (3)曲尺手(かねんて)
 「曲尺手は、直角に曲げられた道のことで、軍事的な役割を持つほか、大名行列同士が、道中かち合わないようにする役割も持っていました。江戸時代、格式の違う大名がすれ違う時は、格式の低い大名が駕籠から降りて、挨拶するしきたりでした。しかし、主君を駕籠から降ろすことは行列を指揮する供頭にとっては一番の失態です。そこで斥候を行列の見えない曲尺手の先に出して、行列がかち合いそうなら休憩を装い、最寄のお寺に緊急避難しました。
 ※宿場の入り口にあった「枡形」などの施設は、その目的・利用法・形状で宿場ごとに呼び名は異なっている。「見付」「木戸」「関門」「番所」「棒鼻」「曲尺手」などである。
 
(4)夏目甕麿邸跡   「現地説明板」









「甕麿は通称嘉右衛門、萩園と号した。酒造を業とし傍ら国学を内山真龍(またつ=1740〜1821)に学び、後、本居宣長(1730〜1801)の門に名を連ねた。賀茂真淵(かものまぶち=1697〜1769)の「万葉集遠江歌考」「鈴の屋大人都日記」等を上梓(じょうし)出版して国学の普及につとめた。著書に「吉野の若菜家集」等数編がある。文政5年(1822)没。
 諸平は甕麿の長子、柿園と号した。若くして紀州和歌山の本居大平(もとおりおおひら=1756〜1833)の許に寄寓、乞われて加納家の養子となる。後、紀州候に召されて国学を講じ、国学所総裁となる。諸平には「当代類題和歌選集」「腹玉集」七巻のほかに「柿園詠草」「柿園詠草拾遺」等の家集をはじめ数多くの著作がある。安政三年(1856)没。
※上梓…梓(あづさ)を版木に用いたことからいう。図書を版木に刻むこと。又図書を出版すること。

 (5)庚申堂 









 元和元年(1681)に建立されたが、現在の建物は天保12年(1841)の再建。この地方にある庚申堂の中では最も大きい。堂々たる鬼瓦が見事。「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿の陶像がある。

(注)9,三猿(さんえん)  

 (6)火防樹  「現地説明板」









       2年前の見学時         2007年5月16日現在

 湖西市指定文化財 白須賀宿の火防
東海道白須賀の宿は、津波の難を恐れ、宝永五年(1708)潮見坂の下から、坂上へ宿替えをした。それまでの坂下の白須賀を元宿と呼ぶのはこの為である。宿場移転以来、津波の心配は無くなったが、今度は冬季に西風が強く、度々火災が発生し、しかも大火となることが多かった。これは当時、殆どの家の屋根が藁葺きであったことに依る。そこで此の鍛冶を食い止めるために、生活の知恵として工夫せられたのが火防で、人々は「火除け」とか「火除け地」とか呼んで大切にしていた。
 火防の広さは、間口二間(3,6m)奥行四間半(8.2m)で常緑樹で火に強い槇が十本くらい植えられ、元は宿内に三地点・六場所の火防があった。
 ※昔はどこの宿場にもあったが、県内で残っているのはここ白須賀のものだけである。