2 新居関所とその周辺
 東海道・新居宿

 1 JR新居駅周辺
 @種田山頭火の句碑
 A大元屋敷
 B中屋敷
 C堂塔の松
 
 2 新居関所とその周辺
 @新居宿概要
 A新居関所
 B紀伊国屋
 C本陣
 D寄馬跡

 3 鷲栖院から立場跡
 @鷲栖院
 A一里塚跡
 B棒鼻跡
 C教恩寺
 D風炉の井
 E紅葉寺
 F松並木と為家・阿仏尼の歌碑
 G立場跡

 ※参考にした本等

  新居関所は、東西に長い新居宿の東端にあり、舞坂宿から今切の渡船に乗った旅人は、関所構内の新居側の渡船場に着いた。新居宿は関所と渡船場によって栄えた宿場である。

 @新居宿概要…日本橋から271km(68里30町)
  舞坂宿へ1里18町(5,9km)・白須賀宿へは1里24町(6,5km)
  ・宿内人別 3474人(男776人 女1698人)
  ・宿内惣家数 797軒(本陣 3 旅籠 26)
  ・宿内の長さ 1,1km(東西300m 南北800m)
  ・管轄   初め幕府領、後に三河國吉田藩領
 A新居関所
  ◆設置の背景と時期
 「関ヶ原の戦い」(1600)の時、徳川家康が西軍の浸入、味方の裏切り、寝返り防止、残党の取り締まりを行うために設置。はじめは、現在地より東南1,5kmの「大元屋敷」に設置。(「JR新居駅周辺」の項参照)。ここは浜名湖に半島状に出ていた突端で、ここに今切関所と新居宿が作られた。元禄12年(1699)の災害で、中屋敷に移転し、更に宝永4年(1707)の大地震で倒壊し、現在ある関所の場所に移転した。
 
 ◆新居関所…関所発行のパンフレットより転載 
 新居関所は、正式には今切関所といって、慶長5年(1600)に設置されました。創設当初は浜名湖に近い、現在の「大元屋敷」(「JR新居駅周辺」の項参照)と呼ばれる場所にありました。しかし地震や津波などの災害で移転をしいられ、中屋敷(「JR新居駅周辺」の項参照)を経て現在地は3度目の場所です。
 江戸時代には、現存する面番所(めんばんしょ)・書院・下改勝手(したあらためかって)・足軽勝手のほか船会所(ふなかいしょ)・女改長屋・土蔵などがありました。それらを包むように西に瓦葺の大御門(おおごもん)、東に渡船場があり、対岸舞坂へは渡船によって行き来しました。面番所等は嘉永7年(1854)の大地震で大破、翌安政2年(1855)に建て替えられたもので、全国で唯一現存する関所建物です。
 新居関所は明治2年(1869)の「関所廃止令」によって約270年にわたる歴史に幕を閉じ、以後小学校や役場として使われました。昭和30年(1955)國の特別史跡に指定、同46年(1971)面番所ほかの解体修理事業を行い、大切に保存し、公開しています。
 現在、関所構内の全面的な復元事業を進めており、往時の新居関所の姿がよみがえる予定です。
 
◆渡船場跡  「現地説明板」
江戸時代、新居と舞坂の間は渡船による交通がおこなわれた。これを今切渡船と言った。この渡船場跡は、宝永5年(1708)に今切関所が現在地に移転してからのものである。大正以降の埋め立てにより今はその面影を全くとどめていないが、平成14年渡船場の一部を復元整備した。
    平成16年3月  新居町教育委員会
 ※「渡船場跡」  「パンフレット」より
 新居関所のすぐ東は浜名湖で、構内に渡船場があり対岸の舞坂と船で行き来していました。明治以降の埋め立てで景観は失われましたが、平成14年(2002)、湖岸と渡船場の一部を復元しました。古絵図・発掘調査などに基づき護岸石垣、渡船場、湖水面、水際の丸太杭、面番所への通路などを整備、「海の関所」の面影がよみがえりました。

 ◆炭太祇(たんたいぎ=1709〜71)の句碑
   「木戸しまる音や新居の夕千鳥」

 (注)4,炭太祇






 ◆関所の石樋(せきひ)  「現地説明板」
 石樋というのは、雨水などを流すための側溝のこと。関所の面番所をはさんで南北に排水などを流す二筋の側溝が東側の石垣まで掘られ、浜名湖に注いでいました。そして、この2つの石樋が、その側溝の先端に鴨の口ばしのように突き出ていました。そのため、この石樋は「鴨の嘴(くちばし)」とか、「鴨の口」と呼ばれていた。


 ◆荷物石  「現地説明板」
   これは旅人が関所で、取り調べを受けている時、荷物を置いた石です。当時二つの荷物石が面番所の西側に並んで置かれていました。
 





 ◆関所面番所(おもてばんしょ)…「現地説明板」
   この建造物は、旅人を取り調べる「面番所」といい、嘉永7年(1854)の大地震で崩壊後、翌安政2年(1855)に建て替えられました。構造は瓦葺入母屋造りで東西11間、奥行き7間で、これに三方三尺のまわり縁側がつき、内部は東から10畳、20畳、25畳の部屋割りの構成になっています。この面番所は、明治2年(1869)関所廃止令後の明治6年(1873)から大正5年(1916)までは小学校として、その後は新居町役場庁舎として昭和26年(1951)まで使用されました。昭和46年(1970)に文化庁で全面的な解体修理が実施され、今では江戸時代、全国に53ヶ所あった関所も、ここ新居しか現存していない遺構となりました。
 ※「上の間」(応接間)…10畳の部屋
  「上番所」…20畳の部屋 給人3人、番頭1人
  「下番所」…25畳の部屋 足軽小頭1人、足軽6人
               下改め2人
        合計13人で取り調べにあたった。
 ◆関所役人  「面番所内の説明板」









  新居関所の関所役人は、40人前後の規模で、交替制でした。具体的な役職は、偉い順に、番頭(ばんがしら)下改(したあらため)賄役(まかないやく)足軽(あしがる)番所勝手足軽(ばんしょかってあしがる)往還女改之女(おうかんおんなあらためのおんな)に分かれており、開け六つから暮れ六つ(今の午前6時から午後6時)迄勤務しました。
 
 ◆関所常備武具









 関所には、規則に従わぬ旅人に対しては武力をもって取り締まる、或いは通行者に畏怖(いふ)の念を抱かせる心理的効果を狙う為、常時武具類が配備されていました。時代によって、この数量は異なるも基本的には次の武具が置かれました。
 弓25張(はり) 鉄砲25挺(ちょう) 矢箱1荷(か)
   玉薬箱1荷  長柄(ながえ)10本(柄の長い武具)
 
 ※女改め  
関所には改め女(俗に改め婆)がいて、関所を通る女性を
調べました。改め女は、関所勤務の母親が務め、関所構内
に住んでいた。
 





 ※関所手形
  関所を通るためには、関所通行許可書ともいうべき関所手形
が必要でした。関所手形は別名を証文、切手ともいいました。
手形の種別としては、女・鉄砲のほか、乱心・囚人・首・死骸
などがあり、港に出入りする船のため出船手形・入津(にゅう
しん)手形もありました。
 特に厳しい取り調べを行ったのは「入り鉄砲に出女」といわ
れるように、江戸に持ち込まれる「鉄砲や武器」に目を光らせ
るとともに、江戸から出る女性に対して特に厳しい取り調べを
を行い、手形の内容が少しでも間違いがあれば、通行が許可されなかった。関所を通らず、ひそかに山越えや海越えをして移動した者は、関所破りとして重刑に処せられた。

 ◎関所史料館
 新居関所史料館は、新居関所に関する歴史資料や江戸時代交
通資料などの収集・展示をしている。
 1階には「街道と関所」「海の関所新居」として主要街道と関所の分布、新居関所の変遷と役割等を紹介。
 2階は「旅と宿場」として旅の様子を描いた浮世絵版画、各地の名物、新居宿の紹介・庶民の暮らしの道具類の展示。
 2階展示室の一画では、江戸時代に関する特別展・企画展を随侍開催。
  ★開館時間 午前9時〜午後4時30分
  ★休館日  毎週月曜日(休日の場合開館)・年末年始
  ★入館料  大人個人300円  小人個人100円

 B紀伊国屋‥‥現地説明板  新居宿旅籠紀伊国屋資料館









 新居宿旅籠紀伊国屋は、紀州の出身で江戸時代のはじめに新居へ来て、茶屋を営んだという。はじめは小野田姓を名乗り、後に疋田弥左衛門に改めた。旅籠屋としての創業時期は不明だが、元禄16年(1703)に、御三家の一つ紀州藩の御用宿を勤めるようになり、正徳6年(1716)に「紀伊国屋」を名乗ることを許されたという。その後、享保17年(1732)に帯刀御免、延享2年(1745)に5人扶持を賜り、江戸時代後期には敷地内に紀州藩の七里(しちり)飛脚(びきゃく)の役所があった。紀伊国屋は明治7年(1874)泉町の大火で焼失し、建て替えられ、昭和24年(1949)まで旅館業を営んでいた。建物はその後増築したが、一部に江戸時代後期の旅籠屋の様式を残していたことから、街道文化を伝える施設として活用するため、東海道四百年祭にあわせ、再生整備工事を実施した。
      入館の注意事項
 一、館内は禁煙です
   一、管理人の指示に従ってください。
   開館時間 午前九時から 午後四時三十分
   入館料金 大人二00円 小・中学性一〇〇円
   休館日 間異種月曜日(祝日の場合は閉館)
              新居町教育委員会

 (注)5,道中記に描かれた「新居宿と関所」

 C本陣     「現地説明板」
 ◆疋田弥五助本陣跡
現在の疋田医院。天保年間(1830~44)の記録によると建坪188坪で門構え・玄関を備えていた。弥五助本陣には宇和島・今治藩など70余家余りが利用した。また天保年間には年寄り・問屋役を勤めた。
   ※宝永の新居宿移転後、最初の問屋場。


 ◆飯田武兵衛本陣跡
現在の飯田純昴家。天保年間(1830〜44)の記録によると建坪196坪で門構え、玄関を備えていた。飯田本陣には小浜・桑名・岸和田藩など約70家が利用した。元治元年(1864)天皇行幸の際に行(あん)在所(ざいしょ)(天皇行幸の際の仮のすまい)となり、同年の還幸(かんこう)(天皇が行幸先から帰ること)翌2年の再幸、11年の巡幸(じゅんこう)(天皇が各地を廻ること)の際にも利用された。その行在所は明治18年(1885)奥山方広寺に移築された。
   ※平岩弓枝原作の「水鳥の関」のモデルになった本陣
 
 ◆疋田八郎兵衛本陣跡
飯田本陣の南隣にあった。天保年間(1830〜44)の記録によると建坪193坪で門構え玄関を備えていた。八郎兵衛本陣には吉田藩のほか御三家(尾州・紀州・水戸)など約120家が利用した。庄屋・年寄り役なども勤めた。




 D寄馬跡  「現地説明板」
  宿場では公用荷物や公用旅行者のために人馬を提供する義務があり、東海道の宿場では常に百人の人足と百疋の馬を用意していた。しかし交通量が多い場合は、助郷制度といって付近の村々から人馬を寄せ集めて不足を補った。こうして寄せ集められた人馬の溜まり場を「寄馬所」と呼ばれた。

※助郷(すけごう)
  江戸時代、宿駅の伝馬・人足が不足したとき、幕府がこれを補うために定めた村、またはその制度。人馬を提供することを「助郷役」負担した村を「助郷村」という。農民の負担が大きく、百姓一揆の原因ともなった。