2 増楽町〜篠原町
東海道・浜松宿〜舞坂宿

 1 菅原町〜若林町
 @子育地蔵
 A鎧橋
 B若林一里塚
 C二つ御堂
 D八幡神社
 E諏訪神社

 2 増楽町〜篠原町
 @熊野神社
 A増楽の「ぼう示杭」
 B堀江領界石
 C立場本陣跡
 D神明宮
 E篠原の一里塚
 
 3 坪井町〜馬郡町
 @稲荷神社
 A富士山東光寺
 B史蹟 稲佐山大悲院観音菩   薩聖跡(馬郡観音堂跡)
 C東本徳寺
 D西本徳寺
 E春日神社

 4舞坂宿
 @舞坂宿概要
 A舞坂の松並木
 B史跡 見付石垣
 C一里塚
 D各町の常夜燈
 E宝珠院
 F岐佐神社
 G指月院と観音堂
 H本陣と脇本陣
 I雁木跡
 J那須田又七顕彰碑

 ※参考にした本等
 
 @熊野神社(旧名伊豆権現) 浜名郡可美村増楽401−1(現浜松市増楽)
   ◆熊野神社  「現地説明板」
  一、祭神  伊弉諾尊 事解男命(ことときおのみこと)  速玉男命(はやたまおのみこと)
  一、別社  若宮社 祭神オオサザキノミコト(仁徳天皇)
  一、大祭  十月十日 旧九月十五日なりしも大正中頃教育的見地からより各字統一す
  一、由緒  当社は大正15年4月1日火災に罹り、社殿等焼失したればその由緒詳かならず。伝ふる所に依れば、名門出身紀伊國熊野神社の神官故ありて諸国遍歴の砌当地に足を止め居を定め、祭神を奉祀したるに始まると云う。古来熊野三社大権現と称したれども、明治2年六所神社と改称、同7年熊野神社と改め、同12年村社に列せらる。
 
 ◆御神木  「現地説明板」
 
 ◎雲竜椎
  樹齢500年(推定)位の椎で、当熊野神社の歴史をじっと見守ってきたとことが考えられます。丁度雲に坐って昇天する龍の面影を留め骨と皮で尚神殿をお守りする様相が偲ばれる処から、御神木として本年度より登記致しました。
     平成八年十月吉日         宮司敬白






 ◎昇天松
  樹齢400年(推定)位の黒松で真直ぐに天空に向かって伸びる姿は、当神社境内でもその枝振りと共に一際立派で仰ぎ見る人達に崇高な感動を与えて呉れます。遠く南遠州灘を望み、北方に赤石の山脈を見下ろす、御神木として何時までも此の処に住む人たちを守護って戴きたいと思います。
     平成八年十月吉日        宮司敬白





 A増楽の「ぼう示杭」  浜松市増楽町408
 








浜松藩井上河内守の領分であった敷智郡増楽村と、ほりえの大沢右京大夫の知行地であった敷智郡高塚村との境界に建立されていた。東海道の左右に一基づつあった。「従是東浜松領」と刻まれた高さ1,5mの石柱二基が現存しているが、昔あった位置から若干動かされている。   
      「静岡県歴史の道 東海道」 P262
 
 (参考)「従是西浜松領」の石柱碑  浜松市薬師町169
 長上郡薬師新田(浜松藩井上河内守領分)と同郡安間新田(旗本松平筑後可美知行地)との領境。東海道の左右にあった榜示杭は、共に国道より南に100m入った和田児童遊園地内に移されている。二基ともに正面に「従是西浜松領」と刻まれ、高さ1.5m・縦横0,25m。一基はほぼ完全に、他は著しく欠損している。
           [同上書]  P249
 ※ほうじぐい(ほう示杙)と記すこともある。境界のしるしに立てるくい。さかいぐ   い。

 B堀江領界石   浜松市高塚町    木柱のみ 「現地説明板」なし 
 日本生命可美営業部南交差点の南西角 
 浜松藩と大沢氏の堀江領との境界を示す堀江領側の榜示杭。

 (注)9,堀江藩
 (注)10、堀江城跡
 (注)11,宿廬寺
 (注)12,大沢基寿
 



 C立場本陣跡   篠原町14,111 木柱のみ 「現地説明板」なし
  舞坂宿と浜松宿の間に存在。「宿村大概帳」には「浜松宿江1里14丁、舞坂宿へ1里5丁」とある。篠原立場は通称「本陣」と呼ばれており、本陣的な役割を果たしたようである。明治初年に前後3回明治天皇が小休。現在の鈴木家の母屋は安政年間に改築されたもの、それまでの篠原立場は二階建てであったが、安政の地震で破損したため、平屋建てに造りかえた。
 
 (注)13,立場・間の宿・茶屋
 
 D神明宮   「現地説明板」
 一、祭神  天照大神 豊受姫大神
 一、由緒  本陣者は、伊勢神鳳抄に言う。篠原村神戸九町三反とあるものに   相当し建暦二年(1212)小島神明島に鎮祀せられたるものにして、永徳年   間(1381〜84)当地に移転し、徳川幕府により御朱印五石を拝受する。
   末社(通称八幡様と呼ばれる)には、大国主命、津島神社・東照宮・若宮八   幡宮を奉斎する。
 一、建物  神明造 棟に千木・鰹木を備えた社殿
      昭和七年完成(現在の建物)
 一、棟札 天正八年(1580)の棟札あり。

 E篠原の一里塚(日本橋より六十七里)    「現地説明板」
  徳川幕府は、慶長九年(1604)東海・東山・北陸の三街道に方五間(約9m四方)の一里塚を築くことを命じました。江戸日本橋を基点とし、一里(三十六町=約四キロ)毎に街道の両側に一里塚が築かれました。
 東海道宿村大概帳に「壱里塚 木立左松右榎 左右の塚共篠原地内」と記されています。(左側とは南・右側とは北を指す)当時の旅人は、一日十里(約40キロ)を歩くのが普通であったといわれていました。
           浜松市 広報課
           篠原町東自治会

 (注)14,篠原の地名の由来と言い伝え