1 七福神の由来
 遠州七福神めぐり

 1 七福神の由来

 2 七福神の概略

 3 各寺院案内
  
 (1)極楽寺から福王寺
  @実谷山 極楽寺
  A八幡山 法雲寺
  B風祭山 福王寺

 (2)松秀寺から永江院
  C龍冨山 松秀寺
  D法王山 官長寺
  E海岸山 増船寺
  F和光山 永江院


 ※参考にした本等
 江戸時代には、現世御利益を願う人々により、正月には「七福神詣で」が行われ、「お宝売り」の売る「宝船」の絵を正月2日の夜、枕の下に入れて寝ると目出度い初夢を見られると信じられ、「七福神信仰」は益々庶民の間に浸透していった。
  しかし、その由来ははっきりしない。古くから信仰されていた「弁財天」「恵比須」「大黒」の三神に「毘沙門天」「布袋」「福禄寿」「寿老人」の4神を、室町時代に加えて「七福神」とする信仰が起こったとされている。
  「福禄寿」と「寿老人」は、同体ともいわれるので、どちらかの代わりに吉祥天を加えることがある。
  七福神は、日本の神(恵比須)とインド起源の天部の三神(大黒・弁天・毘沙門天)及び中国の三神(布袋・福禄寿・寿老人)により構成されており、日本・インド・中国3国の福神の集合体といえる。
  七福神は、日本起源の恵比須を含め、海の彼方から訪れると考えられ、七福神集まって来る船が「宝船」である。
  七福神という発想は「仁王経」の中の「七難即滅・七福即生」に由来するといわれる。しかし、一説には江戸時代に寛永寺を創建した、天海大僧正が編み出した信仰であるともいわれ、また「竹林の七賢人」にならったともいわれている。

 ★天海僧正(1536〜1643)
  江戸時代前期の天台宗の僧。諡号は慈眼(じげん)大師。11才の時出家し、比叡山の実全について天台学を、園城寺(大津市・俗称三井寺)の尊実には倶舎を南都(興福寺のこと。比叡山延暦寺を北嶺)では法相・三論を、大寧禅徳からは禅学をそれぞれ学んだ。のちに川越の喜多院に住んだ。徳川家康の信任厚く、比叡山の南光坊の主となったが、再び喜多院住職となった。慶長14年(1609)比叡山法華大会の修法に際しては選ばれて探題となった。後陽成天皇から僧正を賜った。元和元年(1615)の正親町上皇の御忌には導師となり、大僧正に任じられた。寛永元年(1624)に上野の寛永寺の開基となる。秀忠・家光の政治顧問格であった。11年を費やし本活字によって「一切経」を開版し、天海版と称されている。        「ブリタニカ国際大百科事典」より

★探題…法華経・維摩経などの論議の際に、論題を選定し、問答の当否・優劣を判定する役の僧。題者。     「広辞苑」より