2 七福神の概略
 遠州七福神めぐり

 1 七福神の由来

 2 七福神の概略

 3 各寺院案内
  
 (1)極楽寺から福王寺

  @実谷山 極楽寺
  A八幡山 法雲寺
  B風祭山 福王寺

 (2)松秀寺から永江院

  C龍冨山 松秀寺
  D法王山 官長寺
  E海岸山 増船寺
  F和光山 永江院


 ※参考にした本等
 @エビス(恵比須・恵比寿・戎・夷)
 日本の固有の生業の守護神に起源する神ともいわれ「コトシロヌシノカミ」(事代主神・命=大国主命の子供)、「蛭子神(ひるこのかみ・ひるこがみ=伊弉諾尊・伊弉冉尊との間の子供)と習合して普及した。
 エビスの名は、異国人の意味でエビスが外から訪れる神とされたことに由来する。
 「山の神」「田の神」と習合した例もあるが、特に漁民との結びつきが深く、「豊漁の神」であるとともに、「海中から出現する神」、「漂着する神」として信仰された。
 エビス信仰は、漁村から内陸に及び、畿内では摂津國の広田の末社夷社が西宮に発展し、エビス信仰の中心となった。
 室町時代には、現世利益神・福神として信仰されるようになり、漁業の神にふさわしく鯛(タイ)を抱えて釣竿を手にしたエビス顔の神像として、室町時代に定型化された。
 また都市を中心に福神信仰が流行し、エビスと大黒天(大黒)を一対の福神とする信仰も普及した。エビス・大黒の信仰は民間で大黒のお札を配り、大黒舞をして歩いた遊行の芸能集団と陰陽師系の遊芸である「エビスまわし」の活動により普及し、家に「エビス・大黒」をまつる風習が一般化した。
 家屋の主柱を「大黒柱」と呼ぶのも、柱にエビス・大黒を祀ったことに由来する。江戸時代以降、商業の神として都市で信仰されるようになり、商家では正月又は10月20日に「エビス講」を開き
エビスをまつる風習が盛んになった。
 ★エビス講(夷講・恵比須講)
  商家で商売繁盛を祝福して恵比須を祭ること。親類・知人を招いて祝宴を開く。旧暦11月20日に行う地方が多いが、1月10日・1月20日・10月20日に行う所もある。中世末に始まり、江戸時代に盛んに行われた。
 ★誓文払い(せいもんばらい)
  陰暦10月20日の夷講(えびすこう)の日に京都の商人や遊女が四条京極の官(冠)者殿に参詣し、商売上の駆け引きで客を欺いた罪を払い神罰を免れるように祈った行事。江戸時代以来の風習で、この日、京都・大阪の商店が安売りを行ったところから、後には商店の売り出し行事となり、京阪だけでなく全国に広がった。

A大黒天
  弁財天(弁天)と共に、密教系の福神として、鎌倉時代から盛んに信仰されるようになった。大黒天は古代インドの暗黒の神「マハーカーラ」であったが、仏教に取り入れられ、「自在天」の化身とされた。
 中国南部には大黒天を厨屋(くりや=台所)神として寺院の台所の柱や、倉庫に祀る風習があり、天台宗により日本に伝えられて、台所の神として次第に民間に普及した。
  鎌倉時代「オホクニヌシノミコト」(大黒主命・ダイコク)と同一視するようになったが、これは音の類似と共に、台所の神から食物の神となった大黒天と農業神の「ダイコク」が習合したものであろう。
  大黒天は中世を通じて都市では、台所・食物の守護神から福徳の神に展開し、農村では米俵の霊とされ、四国・九州では「田の神」と習合した地域もある。その神像は古代の儀軌(密教の儀礼・行法や図像に関する規則)に従い黒色忿怒相に造られたが、福神になった室町時代には、頭巾をかぶり米俵に乗って小槌を持つ円満な福相に定まった。
(注)湖東三山の金剛輪寺の護摩堂の大黒天(平安時代作・國重文)
  厳しい顔つきで、背負っている袋も小さい、古い形式のものである。現在の福々しい顔つきで大きな袋をもつ(福徳性格)大黒天は、鎌倉末期以降のものである。
 
 B弁財天(弁天)
  インドでは、梵天の妃とされた女神。インド古代神話「サラスバティー」という川の神格化ともいう。
  川の神・智恵¥・財物の神であったが、天部の神として仏教に取り入れられ奈良時代に日本に伝えられた。初め手を8本持つ女神の姿で表されていたが、鎌倉時代に2本の手で琵琶を持つ、若く美しい女性の姿に定型化された。
  弁財天は「イチキシマヒメノミコト」(市杵島姫命)と混同されている。音楽を司る神であるが、鎌倉時代以降福徳を授ける神(商業や芸能に功徳)として信仰された。
  美しい裸形で知られる江ノ島弁財天は、寿永元年(1182)奥州藤原秀衡(?〜118)調伏(ちょうぶく=害意ある者を修法により撃破すること。特に密教で行われる)のため勧請されたと伝えられる。琵琶湖竹生島(滋賀県)・厳島(広島県)・東北の金華山(宮城県)・上野不忍池(上野公園の南西)弁財天霊場が中世から近世にかけ栄え今日に至っている。

 C毘沙門天(バイシュラバナ)
  多聞天とも呼ばれ、四天王の一人。仏法を守護するインド神。身体は黄色で忿怒相を示し、甲冑をつけ片手に宝塔を捧げ、片手に鉾または宝棒を持つ。別名倶毘羅(梵語Kubera).インド神話では財宝の神。毘沙門天王。
  古代以来天台宗では、毘沙門堂に祀り、広く信仰されている。七福神の場合には、善根を積む万民に対して、材福を授ける善神とされるが、福神に加えられた理由は明らかではない。・
 
 D布袋(?〜916)
  中国五代(唐から宋への過渡期に、華北に攻防した後梁・後唐・後晋・後漢・後周の5王朝。907〜960)の聖人で、常に杖と布袋を持ち歩き、人の吉凶、晴雨を予知し、弥勒菩薩の化身として尊崇された。明州奉化県出身の中国僧で経山寺の和尚であった。
  禿げた頭で笑みをたたえ体は肥満、背後に一眼をそなえもち、幼児と遊び戯れることを楽しみ、大きな袋に財産の総てを入れて、持ち歩いたと伝えられる。その円満の相は好画材として多く描かれた。
中国では布袋を本尊とする寺院が多い。
 
 E福禄寿
  福と禄と寿命の意で、人名ではない。「福神」「禄神」「寿神」の三神を意味するともいわれる。
  もともと道教で説く万人の理想であったが、中国ではこの3つを体現した存在に神格化された。中国では北宋の嘉祐年間(1056〜63)に現れた道士とも、南極老人星の化身ともいわれる。
  短身・長頭でヒゲを垂れ、経巻うぃお結び付けた杖を手に、一羽の白鶴を従えた姿に表現される。これは道教の神仙の像とみられる。

 F寿老人
  南極老人とも呼ばれ、福禄寿の化身とされる。(福禄寿と異名同神)。
 道教では太上老君として神格化された。天に昇り南極老人星になったといわれる。老子とも、宋の時代の実在人物ともいわれる。その姿は、福禄寿に似ており、経巻をつけた杖を持ち、1,500才の長寿を保ったという。一頭の鹿ををつれた姿に表される。

 ※「宝船」について
  正月の初夢を見るために枕の下に敷いた縁起物。「御宝」(おたから)
 多くは、米俵・宝貨を積んだ帆掛船の絵に七福神を描き、「なかきよのとおのねぶりのみなめざめなみのりぶねのおとのよきかな」
 ◎上から読んでも下から読んでも同じ歌。