5遠州芝本駅〜西鹿島駅
遠州鉄道西鹿島線
〜沿線の史跡を訪ねて〜

1 新浜松駅〜八幡駅
 (1)新浜松駅
 (2)第一通り駅
 (3)遠州病院前駅
 (4)八幡駅

2 助信駅〜遠州上島駅
 (1)助信駅
 (2)遠州上島駅
 
3 さぎの宮駅〜遠州小松駅
 (1)さぎのみや駅
 (2)遠州西ヶ崎駅
 (3)遠州小松駅

4 浜北駅〜小林駅
 (1)浜北駅
 (2)北浜中学校前駅
 (3)遠州小林駅

5 遠州芝本駅〜西鹿島駅
 (1)遠州芝本駅
 (2)遠州岩水寺駅
 (3)西鹿島駅

※参考にした本等

    
 この区間の路線距離は4,5km。この区間は終点に鹿島駅まで行き浜名湖鉄道に乗り換え、岩水寺駅下車徒歩10分で岩水寺、見学後岩水寺駅にもどり宮口駅で下車、庚申寺・若倭部身麿の遺跡を見学し宮口駅から西鹿島駅にもどり、遠州鉄道西鹿島線に乗り換え新浜松駅へ。時間あれば金刀比羅神社まで足を伸ばそう。
 タクシー利用の場合は、遠州芝本駅から庚申寺・若倭部身麿遺跡・金刀比羅神社・岩水寺を経て西鹿島駅で下車。徒歩にて椎が脇神社・金貸し水神・金原明善翁の碑を見学して西鹿島駅に至る。

 (1)遠州芝本駅
★金剛山庚申寺」   ホームページより

 ◎沿革 寺の起源は神亀2年(725)正月、堂風呂の地、現在の庚申堂の北西約200mの所に「庚申尊天」と「脇立月懐長者」「金剛童子」の三尊が出現したと伝えられたことに始まる。当時、この地に小院を建て三尊を祀り、観音山光明寺と称していた。農業の守り神として、近郷の人々の信仰を受けながら推移すること600年、明徳元年(1390)この地を領する太守の検分を得、現在地に庚申堂を建立すると同時に、それまで真言宗であった観音山光明寺を改称し、臨済宗方広寺派となり寺名も「金剛山庚申寺」とした。
 60日毎にめぐってくる庚申(かのえさる)の日には、人間の腹中にいる三尸(さんし)の虫が抜け出し天帝に、その人の罪科を告げられ、命が奪われるというので、その夜は眠らず身を慎んでいなければならないという延命長寿の思想です。当山所蔵の庚申尊天示現の霊場は、摂州(大阪)四天王寺と遠州庚申寺であり、「摂遠の二庚申」として隆盛を極めた。寛政4年(1792)火災により諸堂悉く灰燼と帰した。従って現在の建物は、寛政4年後に再建されたもので、庚申堂拝殿と山門は寛政8年(1796)、鐘楼は天保3年(1832)奥の院が天保12年(1841)である。

◎山門
寛政8年(1796)建立。屋根の四隅に不見猿・不聞猿・不言猿と宝珠猿(鬼門除けの猿)がのっている。

(注)青面金剛と庚申堂・三尸・三猿・庚申講・庚申塚







◎庚申堂拝堂

寛政8年(1876)建立。本地十一面観世音菩薩像・庚申尊天・脇立月懐長者・金剛童子を祀る。堂正面中央「請雨額」、左に「二十四孝図絵馬」右に「源頼政の鵺退治の絵馬」が奉納されている。








◎奥の院跡…天保2年(1841)建立の奥の院がかつてこの位置にあり、行基作と伝えられる帝釈天・大国尊天が祀られていた。
 







★若(わか)倭部(やまとべ)身(む)麿(まろ)遺跡…八幡神社(旧若倭神社)境内
 
天平勝宝7年(755)2月万葉集の編者大伴家持は九州へ防人として派遣される東国の若者たちから和歌を集めました。麁玉郡から徴兵された和歌倭部身麿は、
    「わが妻はいたく恋ひらし飲む水に
          影さへ見えて世に忘られず」
 (妻は私をたいへん恋い慕っているらしい。水を飲もうとすると水面に妻の面影が映って見えて忘れられない)と妻とわかれてきたつらさをうたっています。この若倭部身麿は麁玉郡の役人の子供ですが、その役所である郡家(ぐんけ)はこの付近にあったという説もあります。また江戸時代の終わり頃、この八幡神社の前身の若倭神社に奉納された幟や額・釣灯籠も保存されています。
       昭和54年7月  浜北市教育委員会

★金刀比羅神社  「現地説明板」

  神社はもとは大宝寺境内にありましが、火災の後。今の場所へ移り、そして順次社殿が建てられました。市内で江戸時代の神社建築がこのようにまとまって残っているのは、他にはなく貴重なものです。また毎年十月十日の祭礼に奉納される神楽は、安政3年(1856)から始められました。
 ☆江戸時代の建物
    ・社殿      天保13年(1842)
    ・社務所の一部  嘉永5年(1852)
    ・神楽殿     安政4年(1857)
    ・拝殿      文久3年(1863)
    ・多賀神社    元治元年(1864)
     昭和54年3月        浜北市教育委員会
 ◎金刀比羅神社  「金刀比羅神社・高根神社の紹介」 世話人発行
    御祭神 大物主命 白峯大神 金山彦命
 金刀比羅神社の沿源(淵源=みなもと)は、約400年昔に遡る。金刀比羅神社の名の起こりは、1677年(延宝5年、徳川4代将軍家綱の頃)より、大宝寺の守護神として大黒天を「金毘羅大権現」と称して山門の脇にお祀りしたのが始まりといわれている。しかし1777年(安永6年)火災にあい焼失してから金毘羅大権現をこの山上に移転再建された。また金山彦命は「金山大明神」として、1592年(文禄元年、豊臣秀吉の頃)より、この地に祭られていました。その後、1875年(明治8年)金毘羅大権現の社殿の奥に本殿を造営し、改めて四国讃岐(香川県)の金刀比羅宮より大物主命・白峯大神を迎えると共に、それまで別に祭っていた金山彦命を合わせて祭り、現在の金刀比羅神社となり、尾野の氏神様として祭られている。

(注)金刀比羅神社の祭神について
 
◎金刀比羅神社の伝説
 昔から10月を神無月と呼ぶ。これは神々が出雲へ相談事のため集まり、各神社の神様は留守になるためと言われている。  しかし、尾野の金刀比羅様は神徳が広大なため、総てのことが分っているので、「忙しいので欠席する」と連絡し出席しなかった。
 そのため、出雲へ集まった神々は「それでは尾野へ行きましょう。都合の良い日を知らせて下さい」と問い合わせがあったので、金刀比羅様は、「では10月10日におい出下さい」と返事をした。出雲へ集まった神々が尾野の金刀比羅神社へ来て見ると、境内は参拝者であふれ金刀比羅様は、多くの参拝者一人一人の願い事を熱心に聴いていたので、神様方はびっくりしてお帰りになり、その後は催促も無くなったという。そのため神無月でも、尾野の金刀比羅様だけはお社にいらっしゃるといわれている。

(2)遠州岩水寺駅
 ★根堅遺跡  現地説明板

 人類が地球上に姿を現したのは、今からおよそ500万年前のアフリカ田尾陸で、最初に現れた人類は「アウストラロピテクス」(猿人)でした。およそ150万年以上の更新世に入ると「ホモエレクトス」(原人)「古代型ホモサピエンス」(旧人)と次第に進化した人類が現れてきました。更新世には4回氷河期があり、自然環境は大変厳しい時期でした。
 更新世の終わりの5万年〜1万年頃になると、私たちの直接の祖先に当たる原生人類が現れてきました。それは「現代型ホモサピエンス」(新人)と呼ばれています。 これらの更新世人類は打製石器を使い、狩猟・漁撈・採集の生活を営んでいました。この時代を考古学では旧石器時代(先土器時代・岩宿時代)と四でいます。更新世の日本列島は、まだ大陸から分離されず、陸続きでした。この陸橋を渡ってナウマンゾウ・オオツノシカなどの大型動物が往来し、人類集団もこれらの動物を追って移住して来たと考えられます。
 昭和35年頃、岩水寺の西側では石灰岩の採掘中にトラ・ヒョウ・シカなどの化石獣骨が出土しました。昭和37・38年に東京大学理学部人類学教室の鈴木尚名誉教授らによって行われた発掘調査で化石人骨が発見され、日本における更新世人類の存在を示す貴重な遺跡であることがわかりました。 石灰岩の中の洞窟を埋めている土の上層からは、頭骨・下顎知歯・鎖骨・上腕骨・尺骨・腸骨が発見され、下層からは頸骨・が発見されています。この化石人骨は上層が約1万4000年前、下層が1万8000年前のものと確認され、「浜北人」と命名されて学会に発表されました。
 上層の化石人骨は1個体分で20歳代の女性と考えられ、現代型ホモサピエンス、つまり「新人」であり身長は143cmと推定され、現代人と比べると低く、縄文時代人に似た体型の人類と考えられています。 発見された化石人骨は、東京大学総合研究博物館に保存されていますが、複製品が文化センター郷土資料室(現在はセンター内の「歴史資料室」に展示されています。
    1995年 浜北市教育委員会・浜北市観光協会
    (2001年 一部修正)

(注)猿人・原人・旧人・原生人類
 
★竜宮山岩水寺 浜松市根堅2238 電話053−925−2741
          天竜浜名湖鉄道「岩水寺駅」下車・徒歩10分
          遠州鉄道西鹿島線「岩水寺駅」下車・徒歩30分
  ●宗派  真言宗
  ●本尊  薬師如来 遠江四十九薬師霊場 第二十八番札所
  ●開山  行基菩薩 浜名湖七福神 福禄寿尊天
  ●ご詠歌 「山深く そこきよく
            ながれも広き るりの海かな」
(注)岩水寺と根堅参り
 
◎沿革
  神亀2年(725)行基菩薩が諸国行脚の折、赤佐に留まりお堂を建立して、自ら薬師如来を彫り安置したのが始まりと伝えられる。延暦年間(801〜5)坂上田村麻呂(758〜811)が東征の折、領地200余町歩を寄進して竜宮山龍池院と号した。
その後天長年間(824〜34)雷火のため焼失したが、当時の和尚覚仁により復興され、平治年間(1159〜60)には領田30町歩を有する大寺院であった。享徳3年(1454)赤佐郷を岩水と改め般若院を岩水寺と改称した。
元亀3年(1572)三方原の戦い以前には、78の僧坊があったが、武田の兵火のため全山焼失し、宝物・古文書等を失い、わずかに本堂と古仏3体を残すのみとなった。更に明治21年(1888)火災により焼失。現在の建物は明治中期〜後期に再建されたものである。

(注)行基
※坂上田村麻呂…白華寺参照(遠州上島駅)
(注)赤佐・有玉の地名

◎地蔵堂…本尊子安地蔵尊

  坂上田村麻呂の一子・俊光将軍が亡き母の菩提を弔うために、自らの手で彫ったものと伝えられている。その姿は僧形(そうぎょう)(僧のみなり)ではなく十二単の法服(法衣(ほうえ)・僧服)をつけ、人々は「お比丘尼(びくに)様」と呼んでいる。

 ◎「赤池伝説」…現地案内板 

 子安地蔵尊(お比丘尼さま)が、諸人の守り、安産・子安の御ために朝な夕な、ここ赤池より奥のほら穴から信州までお通いなされていると伝え云う。
●田村俊光将軍の御歌
「縁につれ岩田の里に住む人は
      帯ひも解いて振る袖ヶ浦」
●母君玉袖の御歌
「産みそめて岩田の里を産みければ
      いかい世界を袖ヶ浦まで」
「玉袖のかわく間もなしここに来て
      われ母ならば子安をぞいのる

 ◎薬師堂…地蔵堂の前の道を3分ほど奥に入る。
   行基作と伝えられる本尊薬師如来を祀る。











(3)西鹿島駅
 ★椎ヶ脇神社

 ◎祭神 闇淤(やみお)加美(かみの)命(みこと) 豊玉比売(とよたまひめの)命(みこと)
  合祀 神明神社 天照大神 豊受大神 白山神社 菊理姫神
      (元北鹿島に鎮座)
 ◎由緒 社伝によれば、延暦20年(801)坂上田村麻呂(758〜811)が蝦夷征討のため下向の際、天竜川の水かさが増し渡ることができなかったので、土地の人たちが新たに川船を作って将軍を渡した。将軍は大変喜ばれ人々のために川の水の引くことを祈り、この地に闇淤加美神をお祀りした。すると時を経ずして川の水が引いて洲が現れた。
 この洲より鹿が始めて川を渡ったので「鹿原」と言い(今鹿島という)又その川を「鹿(しし)川(が)」という。即ち「鹿(しし)ヶ淵」の謂いである。これより神名を「猪家(ししが)神社」といい、後に俗称「椎ヶ明神」または「椎ヶ脇明神」と云うことになった。「椎ヶ脇」は「鹿ヶ脇」の転訛(てんか)(本来の音がなまって変わること)したものである。 古来天竜川流域の水利を守り、航行する船の安全を保ち、堤防の破壊を免れる事が出来た。そのため水害の多い村々はみなその分霊をお祀りすることになった。
 徳川家康・家光は共に20石の朱印状を与え、堀尾吉晴(1543〜1611)は社殿を寄進、大久保忠(ただ)教(たか)(通称彦左衛門・1560〜1639)も社殿造営費を寄進した。

(注)椎ヶ脇神社の祭神について
(注)大久保忠教と堀尾吉晴

 ★金貸し水神   天竜川河畔
   病気を担保に金を貸す
        金貸し水神さま  「現地説明板」
   
  「水神宮病気証文の由来」
  明応8年(1498)8月14日のこと、天竜川が氾濫して鹿島村の河岸に祀ってあった水神様が流れ出した。これを見た地元の船頭権三郎が激流に飛び込み、お救いして現在地にお祀りした。所が権三郎は水の冷えで持病(疝気(せんき))の再発により重体におちいった。するとある夜、水神様が夢枕に立ち、そちの病気はこのたびの功により速やかに全快させてやる。尚その他の病気で苦しんでいる者があれば、病気を質として借金証文を上げさせよ。期限までに必ず全快させようとお告げがあり、権三郎の病気も不思議と全快した。
 それ以来、病気の水神様として人々の信仰厚く、遠近からお礼参りや祈願かけされる人が現れるようになった。
 ※疝気…漢方用語。下腹部の痛みの総称。胃炎・胆嚢炎(たんのうえん)・胆石・腸炎・腰痛などが原因となることが多い。
 
★金原明善翁の碑   天竜川河畔
 ●金原明善翁   現地説明板
 
明善は江戸時代から明治時代にかけて郷土遠州の発展の基礎を築きました。翁は天保三年(1832)この天竜川下流の遠江國長上郡安間村(現浜松市安間町)に生まれました。幼い頃から、たび重なる天竜川の水害による惨禍を身を以て体験した翁は、天竜川水系の治山治水と開発こそこの遠州の人たちのしあわせを高める唯一の道であると、確信して以来自分の資産のすべてを投じ、寝食も忘れてこの大事業を実行し、大正十二年(1923)大きな業績を残して九十二歳の生涯を閉じました。天竜奥地の大美林と天竜川護岸、そして浜名・磐田両用水による豊かな遠州の大穀倉地帯など今日に見る発展は、翁および翁の意志によって設立された金原治水財団の功績と関係市町村の努力に負うところが多大であります。 ただ一筋に遠州を愛し、天竜川と共に生きた翁の尊い精神が国営天竜川下流農業水利事業及び国営三方原用水事業に引き継がれて、今も脈々と生き続けています。
    昭和五十九年三月          金原用排水組合
 ●金原用排水組合と金原明善翁胸像建立の経緯  現地説明板
    浜名平野に広がる農業用排水の骨格をなす県営浜名用排水幹線改良事業の地元負担金に冠する事務を共同処理する目的で、昭和13年(1935)3月に、浜松市ほか16ヶ町村(当初浜松市ほか8ヶ村浜名用排水組合)が共同して、金原用排水組合を設立した。設立当初、関係市町村の財政難により」、地元負担金の支出に困難を生じ、事業遂行に支障を来たすこととなった。しかし、県知事の斡旋で明治37年(1874)金原明善翁が設立した金原疏水財団(金原遅参治水財団と変更)から、明善翁の素志(そし)(かねての願い)にかなう事業として、その地元負担金全額の寄付を受けて事業が施行された。工事は太平洋戦争中及び戦後の大変苦しい時代に、明善翁の尊い精神を体して、幾多の先人の善意と努力によって進められ昭和21年6月初めて天竜川の清流によって、浜名平野の水田をすみずみまで潤すことができ、農業の基盤である水源の安定的確保がが実現した。農民はその快挙に深く感謝して、明善翁の遺徳を景仰(けいぎょう)(徳を仰ぎ慕うこと)したのである。その後、天竜川の河状等の変化で、国営天竜川下流農業水利事業により、取水口は船明ダムに遷されているが、浜名平野における近代農業の起点とも言うべきこの浜名用水取水口跡地に、明善翁に対する謝恩記念事業として胸像を建立し、明善翁の遺徳を顕彰すると共に、その遺志と遺風を後世に継承するものである。
                 金原用排水組合 
  ●明善の信条
  一 実を先にして
       名を後にす
  一 行を先にして
       言を後にす
  一 事業を重んじて
       身を軽んず
    
金原用排水組合管理者
  浜松市長 栗原 勝