1 新浜松駅〜八幡駅
遠州鉄道西鹿島線
〜沿線の史跡を訪ねて〜

1 新浜松駅〜八幡駅
 (1)新浜松駅
 (2)第一通り駅
 (3)遠州病院前駅
 (4)八幡駅

2 助信駅〜遠州上島駅
 (1)助信駅
 (2)遠州上島駅
 
3 さぎの宮駅〜遠州小松駅
 (1)さぎのみや駅
 (2)遠州西ヶ崎駅
 (3)遠州小松駅

4 浜北駅〜小林駅
 (1)浜北駅
 (2)北浜中学校前駅
 (3)遠州小林駅

5 遠州芝本駅〜西鹿島駅
 (1)遠州芝本駅
 (2)遠州岩水寺駅
 (3)西鹿島駅

※参考にした本等

    
鉄道路線距離1,6km。この区間は万福寺を除いて、遠鉄高架下沿いに歩いていけば、殆ど見学地を探すのに苦労しない。所要時間は見学時間を含めて1時間30分位である。個人差もあるので余裕を見ても2時間あれば充分である。帰りは八幡駅より新浜松迄は電車で5分。料金は100円。

(1)新浜松駅
★「市民の木」
浜松駅北口広場 (現地説明板) 
 昭和20年6月18日の「浜松大空襲」により、市街地の大半が焼土と化し、プラタナスの並木も枯死したと思われた。しかし、奇跡的にも3本だけは幹にこげ傷を残しながらも、市民の愛の手に守られ、2年後の春、見事に発芽しました。以後、このプラタナスは道行く人に勇気を与え、復興を呼びかけてくれました。戦火の中からよみがえり、市民とともに生きた木として、昭和39年6月には「市民の木」と命名された記念すべき樹木です。  浜松市
(注)他の2本は、浜松城公園と緑化木センターに植えられている。

(2)第一通り駅
 

 @姥(うば)ケ橋…田町・板屋町  「浜松の道・坂・橋」より
  江戸時代は新川に架けられていたというが、昭和36年(1961)コンクリート製にになり、更に遠鉄の高架化に伴い昭和58年(1983)3月に現在の橋が竣工した。橋の名の由来は、昔橋の近くに池があり、池の近くに一軒の宿屋があった。そこに一人の姥がやとわれていたが、ある時、主人の子供の面倒を見ていた折、誤って子供を死なせてしまい、責任を感じた姥は池に身を投げてその償いをした。以来その池を「姥ヶ池」と呼ばれるようになり、橋の名も「姥ヶ池」の「姥」をとり「姥ヶ橋」とつけられたという。
 
 A万年橋…田町       「浜松の道・坂・橋」より
 東海道が新川をまたぐ橋。幕末に河井次郎八が石造りの太鼓橋にかけかえた。この時に長い歳月に耐えられるようにとの願を込めて「万年橋」と名付けられた。 明治になり、人力車・馬車の往来が盛んになると、太鼓橋では不便なので新時代向きに平坦な橋に造り替えられた。現在の橋は、昭58年(1883)に架けられたもので、高架化に伴い姿をかえ、片一方は当時の姿を残しているが、反対側は親柱のみが当時のものである。

(3)遠州病院前駅<  @ 遠江分器稲荷神社…田町 遠州病院裏 
      由緒   「現地案内板」
 田町の氏神社、祭神は倉稲魂神(宇迦之御魂神)。永禄11年(1568)2月の創建と伝えられる。旧境内八百五十坪余。社伝によれば許免(こめ=お米の意)社、分器宇賀大神と称し、約1500年前、22代清寧天皇(記紀に記された5世紀末の天皇。雄略天皇の第三皇子)の御代、天龍河原開墾のために鎮座。坂上田村麻呂(578〜811・征夷大将軍、京都清水寺建立)源頼朝(1147〜99・義朝の第三子、鎌倉幕府を開く、1192征夷大将軍)宗良親王(1311〜85?・)後醍醐天皇の皇子)神饌布帛(神に供える飲食物と布と絹)を奉納。徳川家康(1542〜1616、1603征夷大将軍、江戸幕府を開く)の命により、慶長9年(1604)2月12日本殿修造。歴代徳川将軍家、将軍、諸大名、浜松城主により崇敬されるとある。

明治7年(1874)三組町秋葉神社に合祀。同11年6月20日復活許可。(無格社扱い也)同45年(1912)3月4日神社昇格願提出。大正元年(1912)9月12日、従前社格の村社に指定。昭和56年(1981)7月1日、静岡県神社庁により7等級に指定。昭和15年(1940)に改築され、美麗を誇った戦前の社殿は、同20年(1945)6月18日の空襲により焼失。同21年(1946)10月本殿、同33年(1958)4月12日拝殿工す。建設工事者三嶽市郎氏、工事費500万円。     昭和61年10月    氏子総代
※稲荷神社の境内は、本多平八郎忠勝(1548〜1610)屋敷跡の一部であるという説もある

 A分器橋…早馬町 遠州病院前駅下車すぐ
 分器とは昔の度量衡を意味し、このあたり一帯には尺貫法の元締めとなる役人の住居があったものと考えられている。また、橋のたもとに浜松城の「御器蔵」があり、食器類が保存されていたことから、この土地を「分器」と名付けられたともいわれている。遠鉄の高架化に伴い、親柱の銘板により橋のあったことが知られるのみである。親柱を模したコンクリート製の上にのっている奇妙な形をしたものは、「秤」をイメージしたものと 思われる。
 分器橋付近について最も古い言い伝えとして、鎌倉時代「十六夜日記」の著者・阿仏尼(?〜1283)が東下のおり、暫く滞在したというが遺跡としては定かではない。
(注)藤原為家

 B徳川秀忠公の誕生の井戸…常盤町  
 徳川家康(1542〜1616)の数多くの側室の中でも「西郷の局」はよく知られている。彼女は掛川の地侍戸塚五郎忠春と三河國西郷(豊橋市)の土豪西郷正勝の娘との間に生まれた。浜松城に奉公に出て家康の目にとまり、3男二代将軍秀忠(1579〜1632)4男忠吉(1583〜1607)をもうけた。秀忠誕生地については、浜松城二ノ丸説と遠州病院北側の常盤町地内の二説ある。
 遠州病院前駅を降りてすぐ右折し、交番の裏には石碑と地面に「井の字」に組まれ井戸跡をしめしている。勿論正確な位置を示すものではない。
 また常磐町地内の新川にはかつて「誕生橋」と呼ばれた橋があり、その西側いったいを「誕生屋敷」と呼んでいたという。高架化に伴い、現在は川の上は遊歩道になっており、100mほど先には「誕生橋」と記した親柱が遊歩道上に造られている。


 C松屋山万福寺(曹洞宗・天林寺末)
 ◎由緒
  寺伝によると、寛正元年(1460)本寺天林寺三世満室長円和尚の開創。貞享元年(1684)火災で焼失したが、元禄12年(1698)本堂再建。昭和20年(1945)の戦災で再び焼失し、現在の本堂は昭和30年(1955)に再建されたものである。

 ◎「黒衣地蔵尊発祥之地」の史跡碑
 現在は万福寺境内の一画に建てられているが、元は東小学校の西200m、万福寺からは東に300m付近にあった八幡町地内の地蔵尊の発見場所に建てられていたが、都市計画による区画整理のため、地蔵尊ゆかりの万福寺に移された。

 ◎黒衣地蔵堂
 本堂に向かって左側に、赤い幟が林立する小堂が地蔵堂で、内部に「身代わり地蔵尊」で有名な黒衣地蔵尊が祀られている。「広報はままつ」の浜松の伝説に掲載された「万福寺の身代わり黒地蔵」の概要は、次の通りである
『昔、浜松城主の一行が、野口村まで来た時、稲の根元で「勘右衛門、勘右衛門」と呼ぶ声がしたので、声のしたあたりに目をやると、そこから光がさしていた。不思議に思い早速掘ってみると、黒い地蔵尊が出てきたので、日頃から信仰心の厚い勘右衛門は、万福寺境内にお堂を建て手厚く祀った。
 それから1年後、一人の侍が勘右衛門を呼び止め「7日の夕方、池川の堤へ来てもらいたい。」と告げた。勘右衛門は承知したものの、これは恐らく試し斬りではないかと察し恐ろしくなり、日頃お参りしている「地蔵堂」の黒地蔵に命を守って欲しいと熱心に祈った。約束の日の夕方、勘右衛門が池川の堤に来ると、例の侍が現れ、一瞬のうちに勘右衛門は斬られてしまった。
 どの位の時間倒れていただろうか、朝風に我に返った勘右衛門は斬られたはずなのに傷がないことに気付き、急ぎ地蔵堂に駈け戻ってみると、右肩から血の流れている黒地蔵を見た勘右衛門は、身代わりになってくれた地蔵尊に感謝し、益々信仰心を深めたという。』
(注)黒地蔵和讃

(4)八幡駅
★八幡宮…八幡町      「浜松市神社名鑑」より
 ◎祭神 玉依姫命 品陀和気命 息長足姫命 伊弉諾尊 伊弉冉尊
 ◎由緒 抑々当社は、徳川将軍家御祈願所に座したり。延喜式許部神社にして、仁徳天皇御勧請小沢渡許部神社と奉称せり。天慶元年(938)に至り大神女に神託ありて、引馬の里に遷座し奉り、白狐老翁の携え来たりし小松も年を経るに従い、大いに成長繁茂し、世俗之を「浜の松」と呼べり。これ即ち「浜松」の起源なり。永承6年(1051)八幡太郎義家(1039〜1106)東国下向の際、当社に参籠(昼夜こもって祈願すること)し楠の下に旗を立て八幡宮を奉招し、武運を祈り「契りあらば帰り来るまで石清水 かけてぞいはふ浜松の里」と和歌一首を神前に詠進あり。世人この楠を「御旗楠」という。徳川家康は天下平定後、徳川家代々の祈願所となし、神領八百石、浜松宿の殆ど神領なり。境内摂社東照宮祭神徳川家康公、また浜松稲荷神社崇敬の人波絶えず。
(注)八幡宮由緒(現地案内板)
(注)八幡宮の祭神
(注)敷智郡六座

◎「雲立ちのクス」   「現地説明板」
 楠の巨樹で、地上15m、幹回り約13m、根元回り14m。枝張り東西約21m 、南北約23m、樹高約15mあり、幹の下部には大きな空洞がある。幹は地上1,5mのところより数株に分かれ、古木の部分は樹勢が衰えているが、新生部は頗る旺盛で枝葉は四方に繁茂している。永承6年(1051) 八幡太郎 義家が当八幡宮に参籠の折、樹下に旗を立てたとの伝承から「御旗楠」と称された。また、元亀3年(1572)徳川家康は三方原合戦に敗れ、武田軍に追われてこの楠の洞穴に潜み、その時瑞雲が立ち上がったとの故事により「雲立の楠」と称されるようになった。   名木・巨木探訪(雲立ちのクス)へ