8 吉田町
国道150号線
〜沿線の史跡を訪ねて〜

1 竜洋町
(1)貴船神社
(2)袖浦公園
(3)掛塚灯台

2 浅羽町
(1)郷土資料館
(2)馬伏塚城跡
(3)了教寺
(4)龍冨山 松秀寺

3 大須賀町
(1)景江山撰要寺
(2)横須賀城址
(3)寂静山本源寺
(4)普門寺
(5)龍眠寺
(6)大淵山窓泉寺
(7)三熊野神社

4 大東町
(1)高天神城跡
(2)松本亀次郎公園
(3)吉岡弥生記念館
(4)吉岡弥生生誕地
(5)梅月山華厳院

5 浜岡町
(1)池宮神社

6 小笠町
(1)正林寺
(2)黒田家住宅と代官屋敷資料館

7 相良町
(1)相良町資料館
(2)龍門山大興寺
(3)大鐘家
(4)相良油田

8 吉田町
(1)小山城
(2)能満寺

 「吉田町展望台小山城」は三層五階の天守型展望台になっており、1〜2階は資料展示室になっている。又小山城横に隣接して「郷土資料館」(無料)がある。

(1)小山城
   @城のデータ          
 所在地 榛原郡吉田町片岡字能満寺山
 形 式 連郭式平山城 
 (一の曲輪・二の曲輪・三の曲輪)
 遺構  曲輪・堀・土塁など。 
 犬山城を模した模擬天守(資料展示室)
   築城者 馬場信房
   築城年代 元亀二年(1571)
 
  ※交通機関
 ・JR静岡駅(北口)より特急バス 御前崎方面行き吉田高校前下車
 ・JR島田駅 よりバス榛原方面行き吉田高校前下車
 ・JR藤枝駅(南口)よりバス榛原方面行き(遠州神戸経由)吉田高校前下車
    ◎何れも下車後、徒歩5分

 A小山城跡   現地案内板
      所在地 片岡2519−1
          町指定文化財第四号
      指定日 昭和239年4月1日
 小山城は、戦国末期の平山城である。遠州進出を企てた武田信玄は、その重要拠点である「小山の砦」を攻略し、元亀二年(1571)砦を修築し、小山城と命名し、大熊備前守長秀を城主とした。徳川軍はこれを攻め取ろうとして、十余年にわたり激しい戦いが繰り返されたが、天正10年(1582)2月遂に落城した。
 城跡には三日月堀、三重堀、井戸等が残り、落城の悲しい物語がある。
               吉田町教育委員会

 B小山城の歴史     パンフレット等より
 小山城は今川氏によって築かれた「山崎の砦」が起源といわれているが、その規模は不明。今川義元の死後、大井川を境として西を徳川領、東を武田領」とする密約を結び、今川領に侵攻したが、大井川を越えて山崎の砦に入り「小山城」を築いた。
 一方密約を破られた徳川家康は、松平左近真乗に小山周辺の知行地を与えた。その後数度のにわたる攻防戦の結果、元亀元年(1570)小山城は松平氏の領有する所となった。 しかし、翌2年武田軍は2万5千の兵をもって小山城を攻撃し奪還。小山城の本格的な築城はこれ以後といわれる。その築城は馬場美濃守信房をもって堀・土塁を築き修築し、城主に大熊備前守長秀を当てた。
 元亀3年(1572)12月、三方ケ原の戦いで、家康を追いつめた武田信玄であったが、天正元年(1573)に陣中で病没し、跡を継いだ勝頼は、天神城を落として武田家の最大版図を築くが、天正3年(1576)設楽・長篠の戦いで織田・徳川の連合軍に大敗して、急速にその勢力は衰退した。
 天正9年(1600)3月、天神城が徳川勢に攻略されると、もはや小山城を維持するだけの余力もなく、天正10年(1601)城に火を放ち甲州へ落ちのびた。

 C小山城の見所
 ◎虎口(こぐち)
  城の出入り口を虎口と言い、主に戦闘面の出入り口をいう。一の門にあたる所が虎口で  、小さく出入り口を築く小口より語源がある。虎口といわれるのは、城の最も重要な所な  ので、猛虎の歯牙(しが)にたとえたといわれる。

 ◎馬出
  虎口の前に設けられた施設で、人馬の出入りを敵に知られないように工夫して築いた土  手。城外から城内へは、土橋を渡ってゆききする形になる。一般的な形としては、的山(あずち)馬出・丸馬出・角馬出の三つがあり、馬出を二つ以上重ねた重(かさね)馬出等もあった。完全な遺構としては篠山城がある。馬出が大きくなると「馬出曲輪」とか「出丸」と称して一つの曲輪になる。
 ◎三日月堀
  武田氏独特の築城によるもので、三日月の形をしている。一般に堀には大別して、水を  たたえた「水堀」、すなわち「濠」と、掘ったままの「空堀」があり、山城の場合は空堀が一般的。城外と城内の境として掘られる他、曲輪と曲輪を区切るためにも用いられるが、竪(たて)堀(ぼり)といって、敵兵の左右への移動を阻害するために設けられたものもある。」形状から堀底に障子の桟(さん)のような突起を残した障子堀(畝状の場合には畝堀)、丸馬出に付属するため半円形の形をとる三日月堀などがある。
 
 ◎大手門
  小山城への出入り口







 ◎三重堀
  守りを堅固にするために、三つ並べにしてある堀。小山城落城後、この堀に身を投げた武田方女子の化身した赤い唇の「蛭」が住むようになったという伝説がある。

 ◎勘助井戸
  武田氏の軍師山本勘助の声がかかっていると伝えれる井戸。

(注)山本勘助について

(2)能満寺
 @由緒
 弘長2年(1262)創建の臨済宗妙心寺派の古刹。元寇の役(文永の役=1274)が 起こると勅願寺として官寺に列せられた名刹。地元では「智恵の仏様」として知られてい  る。茶阿の局(家康の側室・松平忠輝の母)は故郷・金谷付近の寺院に手厚い保護を加 えたが、能満寺はその筆頭で」慶長5年(1600)30石の寺領を寄進している。また家康 の病気全快祈願を能満寺重商国依頼した茶阿の局直筆の手紙が残されている。 山門は江戸初期の元和3年(1617)建立。寺の伽藍中最古。中門は四方に破風をも つ特徴ある建物。本堂は元禄元年(1688)再建で入母屋造。

 A大ソテツ…大正13年(1924)天然記念物指定
根回り約4,5m・中央の高さ約6m、樹齢約1000年。「日本三大ソテツの一つといわれる代表的巨樹である。寺伝によると平安時代の陰陽学 者安倍(あべの)晴(せい)明(めい)(921〜1005)が中国から995年に持ち帰って植えたといわれている。また徳川家康に所望され、駿府城に移したところ、「能満寺へ帰りたいと夜ごとに泣くため元に戻された。(遠州七不思議)
 ※日本三大ソテツ…大坂・堺の妙国寺、清水市の龍華寺のソテツ
   江戸時代後期の史跡名勝案内図「遠江古蹟図絵」には、東海道を参勤の諸侯がわざわざ見物に立ち寄ったとの話が記され、七不思議の「夜泣き伝説」も図絵に紹介されて  いる。

 ※能満寺の蘇鉄  「遠江古蹟図絵」全 修訂解説 神谷昌志 銘文出版社
 「金谷より南西の方に当たりて、榛原郡吉田村に能満寺と云ふ臨済派の禅寺あり。この本堂の前右の側に大蘇鉄有り。長さ二丈余、枝数当年十五本、右の方へ差したる枝三間余。小枝は短し。寺の軒より高く、門前より見湯。大坂堺の妙国寺蘇鉄は枝数多きを称美し、能満寺は長(たけ)高きを賞翫(しょうがん)す。日本の蘇鉄と云ひ伝ふ。参勤の諸侯  方も聞き及ばれ、東海道通行の節はこの寺へ尋ね見物有る由成。俗説に曰く、往古の蘇鉄大名家へ所望競られ、遣はせし處、夜々能満寺へ帰らんと泣きたる由、詮方なくもとへ返せし隣。近来、寺の再建出来て立派に建つ。この蘇鉄、幾年前植ゑしや、その始めを知らず。」        P266

 B大師堂 辻のお大師様(片岡之辻弘法大師)  「現地説明板」
   弘法大師
   合祀 聖観世音菩薩
      地蔵願王菩薩
      馬頭観世音菩薩
  弘法大師は、現世御利益の宗祖で、この大師堂最初の発願は記録消滅のため不詳出 あります。大変に地域住民の信仰を集め、大正時代初期から近年に至るまで、年に一度 盛大なる供養会が行われており、土地の古老は当時の光景を伝えてくれます。その話か ら随分以前より大師堂が存在していたことが推測されます。又、聖観音・地蔵尊等は近所の地点より合祀されたと思われます。
  馬頭観音は、旧田沼街道改め新道(しんみち今の一五〇線)が東西に通り、一方島田街道が南北にここを貫き、交通の要となったこの地点に同じく合祀されたものではないかと思われます。現在この仏様はペットの供養仏として信仰されています。
            平成六年八月吉日    お大師様奉賛会

 C大日如来     「現地説明板」
  大日如来は不思議な仏様である。一切の仏菩薩を統一した絶対の仏であり、如来の王 であり、また諸仏の中心に位置している(曼荼羅)死の苦悩に対し安心を与えてくれる阿 弥陀如来、いろいろの病気から守ってくれる薬師如来等々、それらの諸仏の根源であり又諸仏をまとめる役割をしてくれる仏様である。
  大日如来は太陽の光みたいに輝かしい仏様で、しかも太陽よりも大きく、陰日なたを作 らない光量をもつ仏様である。公平で偉大な光であります。
  大日如来は常に法身の如来であり、仏教の大道を表しています。その法は生ぜず滅せず、三世を通り、常に衆生救済の手を垂れて、我々の悩みを救って下さるのです。この世 を理智の世界に分け、理の世界を表すのに胎蔵界曼荼羅で示し、仏の世界印しています 。それは慈悲の行をおこさしめるよう図表になっている。どの仏と因縁を結んで仏門に入り 修行の世界が理解できるようになって居る。智の世界を表すには金綱界曼荼羅という図  表で劣った人間の智恵をどう磨いて仏の世界へ行かせるかを表してあります。この二つ  の世界で衆生の苦悩が悟りの境地へと導かれるのです。順序としては胎蔵界を見て仏  の世界を認識し、どの仏につき教えを頂き、どの修業をするかを決め、金綱界に移って自 分を磨くということになります。大日如来は諸仏の根元であり、諸仏を統率しながらも如来 自らは目立たず地味で静かなる仏様である。
  十二支の守り本尊は未(ひつじ)申(さる)を受け持っています。    
  胎蔵界真言  アビラウンケン(地水火風空)
  金綱界真言  オンバザラダドバ(帰命金綱界種字)