7 相良町
国道150号線
〜沿線の史跡を訪ねて〜

1 竜洋町
(1)貴船神社
(2)袖浦公園
(3)掛塚灯台
(4)その他

2 浅羽町
(1)郷土資料館
(2)馬伏塚城跡
(3)了教寺
(4)龍冨山 松秀寺

3 大須賀町
(1)景江山撰要寺
(2)横須賀城址
(3)寂静山本源寺
(4)普門寺
(5)龍眠寺
(6)大淵山窓泉寺
(7)三熊野神社

4 大東町
(1)高天神城跡
(2)松本亀次郎公園
(3)吉岡弥生記念館
(4)吉岡弥生生誕地
(5)梅月山華厳院

5 浜岡町
(1)池宮神社
(2)その他

6 小笠町
(1)正林寺
(2)黒田家住宅と代官屋敷資料館

7 相良町
(1)相良町資料館
(2)龍門山大興寺
(3)大鐘家
(4)相良油田
(5)その他

8 吉田町
(1)小山城
(2)能満寺

 今回は「平田寺文書」(国宝)平田寺宝塔(県指定)で知られる平田寺・鈴木梅太郎夫妻の墓所「了見寺」・相良城の杉戸、陣太鼓で知られる般若寺へは時間がなく寄れなかったが、機会があれば立ち寄ってみたい。 

(1)相良史料舘   牧之原市相良275−2      0548−52−4385
  開館日  午前9時〜午后4時
  休館日  月曜日/第3日曜日・月曜日
  入館料  大人210円 団体(30人以上)2割引
         展示概要
  ○遠州相良城図・田沼家刀だんす・七曜紋入りの鐙、飯びつ
  ○田沼意次寄進の馬具・意次寄進の御輿・菱垣・樽廻船の模型
  ○聖武天皇勅書(平田寺所蔵)・関羽読書の図(田沼意知画)

 ※相良民族資料館
  相良史料館と同じ敷地内。入場無料。但し。見学の場合は相良史料館に連絡の事。
(注)相良城
(注)田沼街道
(注)田沼意次の政策と相良における藩政
(注)田沼意次の一族

(2)龍門山大興寺(子生まれ石) 牧之原市西萩間426  電話 0548−54−0031








 龍門山大興寺は、曹洞宗大本山総持寺(そうじじ)(横浜市鶴見区)の御直末寺院で、駿遠二州にわたって末寺70余ケ寺を有する東海の名刹で、今から600年前に大本山第七代貫主大徹宗令禅師によって開山された。
 この寺は、開山以来代々の住職の往生直後に岩中より「まゆ形の石」が生まれるという、摩訶不思議な現象が現れる。大徹禅師は仏の道を説く傍ら、石に関する学識も深く「那須の殺生石の謎を解いた名僧」としても、語り伝えられている。
 人徳の高かった大徹禅師は90余才の高令で多くの門弟に見守られて、静かに大往生をとげようとしていた。惜しまれて逝く大徹和尚は「わしの身代わりとして裏山より石が生まれであろう。」と予言した。事実、往生直後、岩中よりまゆ形の無縫(むほう)石(せき)が生まれ落ちた。そして弟子達はこの石を大徹和尚の身代わりとして墓石にした。以後、代々の住職も無縫石の落下を予言して大往生したが、その通りに落下し、現在に至る29代続いている。大きさは高さ80cm前後、重さは100kg位で多少の大小があるが、これは住職の徳望如何によってそれぞれ異なっている。この石が固い砂岩の中から。なにゆえ這い出してくるのか、その道の専門家も何回か取材したが、いまだに謎である。
 この無縫石は「子生れ石」とも名付けられているが、代々の住職が長寿であったので、「長寿の石」として、又子供が生れるように出てくる所から「安産の石」ともいわれ、又瓢箪に似ている所から縁起の良い石と信仰を集めている。

 ◎大興寺の無縫塔   相良町指定(名勝)
 大興寺初代、大徹和尚が亡くなった時、村人は近くの沢川から「まゆ形」の75キロ余もある石を運んで来て墓標としました。それ以来、寺の住職が亡くなる前には必ず川の崖から、この石が転げ落ちるということで、遠州七不思議の一つに数えられています。大徹和尚から二十九世、みなこの石を墓標としている。自然石の無縫塔は、全国的にみても珍しいもので一名「子生まれ石」ともいいます。       昭和四十一年九月二十日指定
                相良町教育委員会
  ◎シホウチク   相良町指定(天然記念物)
 竹の種類は当地方に数多くありますが、幹が四角のシホウチクは、いつ頃植えられたものか分かりませんが、かなり古いものとといわれています。全国的に南朝系の寺に多い所から、その関係でこの寺に植えられたものと思われます。
      昭和四十七年七月十二日指定
           相良町教育委員会
 ◎日観の葡萄画    相良町指定(絵画)
 日観の画いた葡萄画は、野生の葡萄を写生風に金泥を用いて画いたもので、初秋の葉の色が特によく画かれています。日観は中国のお坊さんで、葡萄画を得意とした人です。この絵には渡辺崋山の高弟椿椿山が筆者を証明した文字が書かれています。
      昭和四十七年七月十二日指定
           相良町教育委員会

◎遠州七不思議  子生まれ石
 東海の名刹大興寺は、今から六百年前に大徹和尚によって開山された。大徹和尚は仏道を説くかたわら石に関する学識も深く、「那須の殺生石の謎を説いた名僧」としても語り伝えられている。人徳の高かった和尚は、九十余才の高齢で、多くの門弟に見守られて静かに大往生をとげようとした。惜しまれて逝く和尚は「わしの身代わりとして裏山より石が生まれるであろう。」と予言したのだった。事実往生直後岩中よりまゆ型の無縫石が落下した以後現代に至る。
 二十九代住職代々往生直後に石が生まれ出ている。この無縫石子生まれ石と名付けられ長寿、子授け、安産の石ともいわれ、「瓢箪(ひょうたん)」に似ている事から縁起のよい石として、信仰を集めている。

(3)大鐘家(国の重要文化財) 牧之原市片浜1032
                0548−52−4277
  ・開館日  午前9時〜午后5時
  ・休館日  木曜日
  ・入館料  大人300円  子供100円
 
@大鐘家について
 室町時代、尾張(現名古屋市高針)の出身。7代目大鐘藤八郎貞綱の時柴田勝家(1522?−83)の家臣となり後、勝家の養子で福井県丸岡城主柴田勝豊の城代家老を勤めた。その後、勝家・勝豊が領地をめぐり不仲となり、勝豊は長浜城主となり豊臣秀吉側につくことになった。やがて秀吉と勝家が対立した「賤ヶ岳の戦い」(1583)では、籐八郎も手勢500を従え秀吉側について戦ったが、秀吉の勝利後、秀吉の重臣加藤肥後守清正と対立し、慶長2年(1597)丸岡を捨てて、遠州相良に移住した。
 大鐘家は江戸前期には、旗本としてその後は大庄屋(豪農)として、この地方では絶大な権力を持っていた。昔は、「大鐘館」と大鐘家は昭和48年(1873)6月2日付で国の重要文化財に指定された。民家建築としては県内に6件ある重要文化財の民家の一つである。 指定されたのは「主屋」と「長屋門」の二棟で、長屋門は江戸時代中期安永年間(72〜81)のものである。
  ※施設概要
  ◎主屋について
   手斧けずりの太い梁と柱・土間に残る大かまど・十畳間
   平井顕斎の襖絵・小堀遠州の庭
  ◎米倉(200年前)…史料館
   山岡鉄舟の掛軸など大鐘家秘蔵の宝物を常時展示
A重要文化財 大鐘家
 ◆ようこそ大鐘家へ
 わしは相良城主だった田沼意次じゃ。江戸時代大鐘家には色々世話になった。わしも昔は外国貿易・印旛沼の開拓・蝦夷地(北海道)の開発などと日本のために頑張ったものだ!! 江戸時代はよかった。昔の時代がなつかしく思えてきたら、又大鐘家へお出掛け下され。お待ち申しておりますゾ。
 それからおみやげに大鐘餅(12ヶ入り)がある。とても美味にてお買い求め下され。一金六百円也で、大がねもちになれるかもしれません。

 ◆重要文化財 (建造物)大鐘家住宅
  主屋は十八世紀前半、長屋門は十八世紀後半の建築であると考えられます。主屋は明治中期以前まで草葺きで、静岡県最古の古(こ)四間(よま)取(どり)形式といわれ、構造・手法は江戸初期の豪農の屋敷構えをよく残しています。大鐘家は、慶長二年(1597)越前の国(福井県)の柴田勝豊の家臣大鐘藤八郎貞綱が、当地大磯村に移り住んだ斗伝えられ、十七世紀後半からは代々大庄屋(おおじょうや)を勤めていました。
       昭和四十七年七月十二日指定
            静岡県教育委員会
            相良町教育委員会

 ◆重要文化財  大鐘家
  面積六〇〇〇平方メートル余の敷地内に母屋を中心として長屋門・土蔵・離れ等数棟を配しているが、現存する古い建物(安永「田沼意次が老中となる」以前)は、母屋と長屋門である。同家の屋敷配置を示す明治二十五年(1892)の銅版画(母屋展示)をみると脇家を除きほぼ現況と一致しており、母屋・長屋門以外の付属した建物は、江戸末期のものである。昭和四十一年(1966)相良町文化財に指定され、同四十六年(1971)静岡県民家緊急調査により十八世紀初頭(1700〜30)の造りをもつ古民家として県指定建造物となり、同年四十八年(1973)六月二日、静岡県を代表する古四間取りの上層民家として母屋と入母屋造桟瓦葺長屋門が国の重要文化財に指定されました。

 ◎主家
  この地方最古の民家で、十八世紀初頭から中期(1700〜50)にかけての古四間取り型式建築です。柱・梁などは全て手斧造で、柱などの骨組みの木材(松・櫻の木)の面にはっきりと手斧目がついています。土間の中央にある「カマド」(約三十人分の煮炊き物ができる)「座敷ヘッツイ」(家主たちだけの煮炊き物)は、珍しい当時の生活様式がうかがえます。

 ◎主屋    重要文化財
 18世紀初頭の建立。切妻造。瓦葺(明治以前は茅葺屋根)建坪160坪(528u)部屋数15室。屋根のさ8,9m。現在も現当主(23代目)の住居として遣われています。
 主屋内部奥には、大きなかまど(此の地方では「へっつい」ghと言う)があり江戸時代には30人もの使用人の煮・炊物をいたしました。又、家族用には専用かまど(座敷へっつい)があります。内部上を見ると、太いはり(材料は黒松を使用)がなん双にも組んであり、重圧感があります。そして中央には2本の大黒柱(雄大黒・雌大黒)が上のはりや屋根を支えています。大黒柱・はり・ちょうな削り(手斧削り)とくさび止めになっていて江戸時代の建立様式を知ることができます。
 
◎長屋門   重要文化財
 18世紀後年の建立。寄棟造茅葺屋根。茅葺屋根の頭にはこの当時の格式(又は装備)などを現す千木(ちぎ)9本と笠木(かさぎ)があります。門正面入口を入って来ますと、左に番人小屋、右に前蔵(農機具用の倉庫)になっています。




(4)相良油田
 @相良油田史料館  牧之原市菅ケ谷2525−1      0548−87−2525
  








・開館時間  午前9時〜午后4時
  ・休館日   火曜日
  ・入館料  無料
  ・概要  採油に使用された井戸枠柱・油たる・   手堀滑車・手堀用つるはし等の展示及び手堀 井戸小屋内部ジオラマ
 
A相良油田の特徴と歴史
 相良油田は太平洋岸唯一の産油地です、その歴史は明治5年徳川家旗本、村上正局(まさちか)が海老江で石油を発見したことから始まる。次いで日本の石油王・石坂周造の知る所になり、明治6年(1873)菅ケ谷に開坑、採油が始まった。最初は手堀により掘削されたが、この年の10月には米国製の綱堀機により、日本で最初の機械堀りが行われた。手堀井戸のふかさ歯、約100mから180mで、最深の井戸は255mにも及んだ。
 この採油は日本石油株式会社により行われ、明治7年(1874)には我が国で最初の機械堀が行われた。
 最盛期(明治17年頃)には、年間721kl(約ドラム缶3,600本)が産出され、井戸数は240坑で約600人が働いていた。明治から昭和にかけて約80年間、相良の一大産業として広く知られたが、徐々に衰退し昭和30年頃(1955)すべての事業を閉じた。
 相良油田の原油はガソリンや灯油分を多く含んだ極めて軽質な原油で、世界的にも希に見る良質な原油である。今のやぐらは昭和25年(1950)に開坑された機械堀井で、相良油田最期の石油坑である。
 相良油田は昭和55年(1980)11月28日、静岡県指定文化財(天然記念物)に指定されている。
 
B相良油田跡  (現地案内板)            












 ◎静岡県指定天然記念物  相良油田油井
   わが国太平洋岸唯一の石油山地として知られた相良油田は、当地菅ケ谷に主要鉱区をもち、最も出油量の多かったのは明治十七年(1884)頃で年産721キロリットルを産出した。当油田は明治5年(1872)2月、村上正局(まさちか)が海老江にて発見した  のにはじまり、同年5月に石坂周造が当地で開坑採掘し、翌6年10月には機械さく井   に成功している。
   大正5年(1916)ごろ150坑ぐらいあった手堀井は一ヶ所もないが、機械堀りの油井  は、これが現存する唯一のもので、深さ310mである。
       昭和五十五年十一月二十八日指定
              静岡県教育委員会
              相良町教育委員会
 
 ◎手堀り井戸小屋
 この建物は手堀り坑の上に建てられた杉皮葺きの井戸小屋で採掘当時のままの大きさに復元したものです。 南側に面する屋根には長さ六尺(約182cm)幅三尺(約91cm)長方形の大きい かり窓画有り、光を坑内に取り入れるためと、坑内の空気を外に出すために工夫されています。
 また、小屋の中を明るくするためと、空気の流を調整するために小屋の左右には出入り口が大きくとってあり、他の面には上下に開く窓が2ヶ所つく                         られています。

 ◎手堀り井戸小屋
   この建物は、手堀り坑の上に建てられたもので、採掘当時のままに復元したものである。
           特色
  一、明かり窓
    南面する屋根に、長さ6尺(182cm)巾3尺(91cm)の長方形の大きな明かり窓があること。この明かり窓は、光を坑内に取り入れるためと坑内の空気を外に出すために工夫されたものである。
  一、出入り口と窓
    左右に出入り口が大きく取ってあることと上下に開く窓が二面取ってあること。これらは、小屋の中を明るくするためと空気の流を調節するために作られている。

 ◎踏鞴(たたら)
  この長方形の大きな箱形のもは、踏鞴といって、坑内に空気を送る大型のふいごで、当 時のままに復元したものである。
 用法は、両端に4〜8人が乗り、上下交互に踏んで空気を風桶に送り、坑内の油気を取り 、新鮮な空気を坑中に補給したものである。又、この手堀り井戸は見学用に作ったもので あるが、坑内の寸法、形状は当時のままに復元したものである。(尚、当時の  深さは  浅いもので21m、深いものでは182m位あった)
     ※どうぞ、ご自由に実験してみて下さい。

 ◎手堀り井戸とたたら
  この手堀り井戸は、見学用に作ったものですが、坑口の寸法や形状は当時のままに復 元したものです。井戸は、まず最初3尺(約90cm)四方を深さ4尺(約120cm)掘り下げ、その隅に枠柱を立て、これに桟木を三段入れ、その間に杉板を差し込み土留めをして、順次掘り下げました。井戸の深さは、およそ60間(約100m)から100間(約180m)で、最深のものは140間(約255m)にも及びました。
 たたらは長方形の大きな箱形のものは踏鞴(たたら)といって、坑内に空気を送る大型のふいごで、当時のまなに復元したものです。井戸の深度が増すにつれて送風装置がないと、坑 底の作業が出来ませんので、たたらの両端に4〜8人の人夫が乗り、上下交互に踏んで 空気を風樋に送り、坑内の油気を取り新鮮な空気を坑内に供給しました。
  (注)踏鞴…足で踏んで空気を吹き送る大きなふいご。(広辞苑)

(5)その他(参考)
 @吸江山平田寺   牧之原市大江459
            0548−52−0492
 ○宗派  臨済宗妙心寺派
 ○本尊  釈迦如来
 ○由緒  弘安6年(1283)の開創。開山は仏光国師無学祖元の孫弟子龍峯宏雲(足利尊氏の伯父・上杉掃部頭頼重の子)が相良荘に禅苑を営み、吸江山平田寺と称したのに始まる。戦国末に戦火のため廃絶に瀕したが、徳川家康の信を得た、妙心寺派の清庵 宗徹禅師により、復興され妙心寺末に転じた。その後、相良城主となった田沼意次の菩提寺とされた。
 ○文化財
 ◆聖武天皇勅書1卷(国宝)
 勅書は麻紙を使用、文字は楷書で丹念に書かれており、一行十三字〜十四字書か れ、一字は3cm四方で字数は三〇〇余字。この文書は全文聖武天皇が書かれたものでなく、天皇の直筆は大きく書かれた「勅」の一字で、唐風に書かれている。勅書の文面は、前半が寄進状で後半が請願文で橘諸兄筆とされている。勅書の正本は、虫干し以外に展観しないが、昭和40年(1965)10月、加瀬藤圃画伯により、真筆と寸分違わぬ副本が完成した。勅書がどのような理由で平田寺に蔵されているかは、開明されていない。
 ★平田寺宝塔(件指定文化財)
 もと、平田寺有楽の同寺墓地にあったが、現在は同時の宝蔵に保管されている。昔から「平田寺の多宝塔」と呼ばれていたが、正しくは「一重石造宝塔」という。古来から「一条三位の供養塔」との説が強いようである。台座右の正面に「延慶三(1310)年庚戌正月日願主沙弥如蓮」と記されている。沙弥如蓮は、一条三位の二男であって、碩学明晰中国元に渡り仏法を究め帰朝し平田寺一世龍峯和尚の跡を継いだ二世空叟智玄和尚で、沙弥とは出家して十戒を受けた少年僧の如蓮と謙遜して、父親の一条三位を供養したものではないか。「如蓮」は幼名「月輪」が出家した当時の名前であろう。
                 「相良町文化事典」P249−50
 ※平田寺開基…「相良史」
  「開基は上杉一条三位憲藤也。昔時弘安元年春、遠江国小夜中山に怪物有て居す。憲藤之を射討するを以て天帝大いに悦んで、此の功を賞せんが為に、遠江国相良荘を賜ふ。依之同所に禅苑を営て「平田院」と呼ぶ。……」
 ★平田寺文書(県指定文化財)
 永仁3年(1295)3月の「相良庄預所沙弥某寺田野畠充文」伏見天皇・後醍醐天皇綸旨(りんし)・寄進状・安堵状・今川家判物(はんもつ)・安堵状・徳川家代々の朱印状・平田寺由緒書等47点
 ※相良の中世史を知る重要史料
 ★平田寺本堂(町指定文化財)  桁行11間。梁間8間半、入母屋造銅板葺。正面左側の唐破風の玄関は、藩主田沼家専用。
 
 A円覚山般若寺  牧之原市大沢695−1
             0548−52−1602
 ○宗派  曹洞宗大興寺末
 ○本尊 観世音菩薩
 ○由緒  文明元年(1469)本寺大興寺四世慶弘和尚の法嗣(ほうし)法統〈仏法の伝統〉を受け継ぐあととり)珠巌玄珍和尚の開創。寺名は県指定文化財大般若経六十五卷を所蔵していることからの命名であろう。永正五年(1518)今川修理太夫〔今川氏親〕の寄付状を有し、家康から寺領十六石五斗の朱印状を受領した。
 ○文化財
  ◆紙本墨書大般若経六十五卷(県指定書籍)
  ◆相良城杉戸八本(町指定絵画)
  ◆陣太鼓(町指定工芸品)
 田沼意次全盛の頃、海賊が相良沖に押し寄せて来たとき、田沼家の家臣が陣太鼓を背負い、小山に上り陣太鼓を打ち鳴らすと、太鼓の音を大砲の音と間違えて、海賊が退散したという伝説が残っている。太鼓の音は、西は浜松東は駿府まで聞こえたという。大正2年(1913)陣太鼓の中に金塊が詰まっているという噂を聞きつけた、泥棒が金塊目当てに太鼓の皮を切り裂いてしまったので、陣太鼓は皮が敗れたまま般若寺に納められている。
  ※杉戸も陣太鼓も、田沼意次の相良城の数少ない遺品で貴重な文化財である。
 B医王山西山寺
  ○宗派  高野山釈迦文殊院末
  ○本尊  薬師如来(県指定文化財)
  ○由緒 天長2年(825)弘法大師の開基。天文5年(1536)より、永禄5年(1562) まで、今川義元・今川武真より黒印状受領。武田氏の遠江乱入の際、堂塔多数焼却され、子坊(玉泉坊)・観音堂・仁王門のみ兵火を免れ、子坊(珠泉坊)を本堂西山寺と改称した。慶安2年(1649)家康より朱印20石受領。寛永13年(1636)薬師 堂再建、正徳2年(1712)本堂・薬師堂を現在地に移転。
 ○文化財
  ◆本尊薬師如来木像(県文化財指定)
 弘法大師作。桧の寄木造・製作年代は平安時代をやや下った造像。像高52,5cm 。
  ◆本堂・薬師堂(県文化財指定)
 寛永期の再建。桃山時代の建築様式。
  ◆磬(けい)(仏具)〈県文化財指定〉
 鋳(い)銅製(どうせい)・横形長方形・重さ260g 
 (注)「磬」とは中国の打楽器。中国語で「チン」石片をつるして槌(つち)で打つもの。石片は「へ」の字の形をしている。1個だけつるしたものを徳磬(トーチン)、十数個が1組になっているものを編磬(ビエンチン)という。後者は旋律打楽器である。のち銅製に変わり、寺院で読経の合図に用いる仏具に転用された。孔雀文磬など工芸として優れたものも多い。
                  「マイペチア百科」電子辞書
  ◆山門
  龍の彫刻は左甚五郎の高弟中山伊平次の作と伝えられている。
  ◆一対の金剛力士像…   運慶作と伝承。
   
 B円通山林昌院    牧之原市新庄957−2
             0548−58−6720
  ○宗派  曹洞宗
  ○本尊  観世音菩薩
  ○由緒  開創年代不詳、初め真言宗林昌院と号した。往古は嵯峨多宝院末といわている。永禄年間(1381―84)足利義満(1358−1408)の代官水野主水守が当所に居住していたとき、堂宇の大破しているのを見て嘆き再建した。その後また大廃したのを祖竜が村民の帰依により、諸堂建立し曹洞宗に改宗し、駿河国藤枝町洞雲寺末となった。従って当院は祖竜を開祖として以後変遷なく20数代経ている。
  ○文化財
  ◆十六羅漢像一幅
  ◆小野薬師如来像(町指定文化財)薬師堂の本尊 室町以前の像寺伝では貞観18年(876)小野小町(平安前期)が出羽国に下る途中眼病に罹り、遠江国浜名郡の瑠璃薬師へ願をかけ、眼病が平癒したことから「小野薬師」と崇めるようになった。寿永2年(1183)畠山森次が榛原郡の郡司として就任したとき当地の里人より浜名の「小野薬師如来」を勧請したいと願い出て、その許しを得たので、堂宇を建て薬師如来を勧請した。
  ※相良町教育委員会の調査では、弘法大師の作とする件や畠山森次は室町時代中期 の人物で報恩庵開基の人物と考え、鎌倉時代の人物とする考えに疑問を呈している。
  C転輪山了見寺      牧之原市堀野新田528−1
            0548−58−0491
  ○宗派  真宗大谷派
  ○本尊  阿弥陀如来
  ○由緒  「地頭方村誌」に、建武年間(1334−36)後醍醐天皇の皇孫開基創建にかかる、寺ケ谷了見寺と称する寺院があったが、永禄年中(1558−70)武田信玄により焼亡された。その後、僧法琳が三州に居を定め、元和2年(1616)当地に来て堂宇を建 立し、改宗して真宗法琳寺と称した。その後明暦2年(1656)、もとの天台宗の寺号に復し、了見寺と改称した。
  ○文化財  
  ◆鈴木梅太郎夫妻の墓(町指定史跡)

  ※御船神事(大江八幡宮=県無形文化財・飯津佐和乃神社)
 相良湊回船業者。水(か)主(こ)(乗組員)その他回船関係者が、海上安全祈願のため、菱(桧)垣回船、樽回船の実物十分の一の模型をつくり、神社採点の際、神前広場で「木遣り歌」に合わせて帆柱起こし、帆上げを行い神輿渡御の先供をなし、練り唄に合わせて船が荒波を行くように練り歩く神事。三十数名の若者によって行われる勇壮な祭りである。
  この神事は「大江八幡宮」で享保年間(1716−36)より相良福岡の回船関係者によって、明治22年(1889)迄行われたが、相良福岡は明治5年(1872)町村制の変革により「飯津佐和乃神社」の氏子となり、今度は飯津佐和乃神社で行うことになり、明治29年(1896)から新たな模型船を造って神事を始めた。
 大江八幡宮では、明治23年から大江区青年団の行う神事として始め今日に至っている。両神社とも全く同じ神事であるが、大江八幡宮が発生的起源が古いため、昭和44年(1969)静岡県無形文化財に指定されている。
  なお、「飯津佐和乃神社」の御船神事は町文化財に指定されている。相良の御船神事に似ているが練り歌がなく、樽回船一隻だけで行う神事が、榛原町鹿島神社・及び榛原町細江の神明神社で行われている。両地域とも、「川崎湊」「寄子湊」の回船業者が始めたものである。