2 浅羽町
国道150号線
〜沿線の史跡を訪ねて〜

1 竜洋町
(1)貴船神社
(2)袖浦公園
(3)掛塚灯台
(4)その他

2 浅羽町
(1)郷土資料館
(2)馬伏塚城跡
(3)了教寺
(4)龍冨山 松秀寺

3 大須賀町
(1)景江山撰要寺
(2)横須賀城址
(3)寂静山本源寺
(4)普門寺
(5)龍眠寺
(6)大淵山窓泉寺
(7)三熊野神社

4 大東町
(1) 高天神城跡
(2)松本亀次郎公園
(3)吉岡弥生記念館
(4)梅月山華厳院

5 浜岡町
(1)池宮神社
(2)その他

6小笠町
(1)正林寺
(2)黒田家住宅と代官屋敷資料館

7 相良町
(1)相良町資料館
(2)竜門山大興寺
(3)大鐘家
(4)相良油田
(5)その他

8 吉田町
(1)小山城
(2)能満寺

 福田町は、太田川右岸河川敷内の「元島遺跡」(古墳時代の舟型粘土棺出土)があるが、確認していないが、埋め戻したのではないか。また7〜8月頃のはまぼう咲く頃なら太田川河口の「はまぼう公園」と水門をみてから浅羽町に向かうのもよいだろう。
 浅羽町では今回は見学していないが、「中新田命山」(中新田)・「大野命山」(大野)・「万松院の切支丹灯籠」(梅山)・「十二所館跡」(諸井)等を訪ねて見たい。

※「浅羽」の地名について
@武蔵国入間軍麻羽郷(現在の埼玉県坂戸市付近)
  坂戸市には「浅羽野」「北浅羽」の地名があり、入間川の支
流越辺川やその支流の高麗川が形成した肥沃な平野とその周
辺にあって、早くから栄えた場所。
  万葉歌碑は坂戸市浅羽野2丁目の「土屋公園」内にある。
A遠江國浅羽
  西遠地方の浅羽の地名には、浜名郡雄踏町浅羽と磐田郡浅羽
町であるが、万葉時代までさかのぼり確認することはできない。
 浅羽町の場合、平安時代の終わり頃には、浅羽の地名があっ
たと考えられるが、それより古い時代になると明確ではない。
 歌に出てくる浅羽はどこか、坂戸市と浅羽町を比較した場合、
現時点では坂戸市の方が有力で、浅羽町には勝ち目がないのが
現実であるが、浅羽町の古代研究が不十分であることを考えれ
ば、松籟決定的な資料が発見される可能性は高い。

(1)郷土資料館  袋井市浅名1021 0538−23−8511 








 



一階…浅羽の伝統文化を紹介  浅羽歳時記
 二階…埋蔵文化財の紹介(南側)浅羽600年の歩み
 農具と民具の紹介(北側)浅羽の米づくり
  ※「浅羽町郷土資料館」パンフレットより

(2)馬伏塚城跡  袋井市岡山字今城






 

  永正元年(1506)今川氏親(1473〜1526)が砦を設けたのが築城の始まり。今川・武田・徳川の戦乱の舞台の一つになり、天正10年(1582)廃城となった。
       (現地説明板)
    馬伏塚城跡   浅羽町子弟文化財  史跡
 此の城は、何時築かれた明らかではありませんが、文亀元年(1501)に遠江國守護であった斯波氏と駿河國守護であった今川氏が遠江國の支配権をめぐって、中遠地域で激しい戦闘が繰り広げられた時に、今川方の拠点として座王城(袋井市久野)・天方城(森町大鳥居)と共に登場しており、この時には城塞としての機能を果たしていたことがわかります。
  城主として確かな資料に登場する最初は、今川氏の重臣で遠江小笠原氏と呼ばれる小笠原春(はる)茂(しげ)(春義・春儀)とその子の氏(うじ)興(おき)(氏清)であり、天神城(大東町土方(ひじかた))の城主も兼ねていたとされます。
  今川氏が滅亡すると、小笠原氏は徳川家康(1542−1616)の配下になります。
  天正二年(1574)六月十七日、西遠地方の要であった天神城が落城し、徳川方から武田勝頼(1546−82)の手に支配が移ると、家康は馬伏塚城を天神城攻略の作戦本部と位置付け、八月一日から大改修を行って、現在の岡山集落全域を取り込む城郭に造りあげた。
  城主には家康の重臣である大須賀康高を置き、天正九年(1581)に天神城が落城するまで、天正六年(1578)に築かれた大須賀城と共に、戦略上重要な位置を占めた。
  しかし、徳川家康による遠江支配が安定する天正十年(1582)には、その役割を終えて廃城となり、跡地に岡山村が形成されていった。
 現在も小字名として残る破(は)城(じょう)(羽城)は、城打ち壊しの儀式が地名として残ったものと考えられる。
  城名の「馬伏(ばむし)塚(つか)城(じょう)」の読みは「まむしづか」「まぶせづか」と両方あるが、現在では一般的に「まむしづか」と呼んでいる。
 ○現在の地形と馬伏塚城との関係
 ○「馬伏塚城絵図」(諸国古城の図)
 ○1999年の調査で発見された土橋
 ○発掘調査の結果や絵図を参考にした南郭群の復元図 (以上省略)
     浅羽町教育委員会   2000年3月

 (注)小笠原長清について



(3)了教寺  袋井市浅羽町浅名1342 0638−23−5379

  







 武田軍に焼き払われた天岳寺を再建。馬伏塚城主小笠原氏の墓。
        (現地説明板)
 一代目  小笠原長高 天文13年(1544)死。57才
            墓所は岡崎村(袋井市)長命寺
 二代目  小笠原春義(又は春儀) 高天神城主兼任
            元亀3年(1572)死。
            墓所は河東村(小笠町)養徳院
三代目  小笠原氏清(又は氏興)
     永禄12年(1569)死。41才
     墓所は岡山村(浅羽町)了教寺
 と三代にわたっている。
 はじめは今川氏に属していたが、永禄3年(1560)義元が桶狭間で戦死すると、氏清は 徳川家康(1642−1616)の配下になった。永禄12年(1569)1月、家康が掛川城攻 略の時、氏清は馬伏塚城の兵を率いてよく戦ったが、6月11日には馬伏塚城において病 死した。その後、家康が鷹狩りで氏清の墓前を通ったとき、「忠功ノ者」の墓所だからと下 馬したという。
  山梨県明野村は、この小笠原氏発祥の地であり、その祖小笠原長清(1242死・81才 )の墓所の地である。
                 浅羽町  小笠原顕彰会

(4)龍冨山 松秀寺 袋井市浅羽町富里453 電話038−23−3079
           遠州七福神 弁財天霊場
           遠州三十三観音霊場第十六番札所
           遠江四十九薬師霊場第四十三札所
 ◎本尊  地蔵菩薩
 ◎秘仏  薬師如来
 ◎宗旨  曹洞宗  
 ◎縁起
 文亀元年(1501)大易正甫大和尚の創建。山号・寺号の由来は、寺院草創時に老松が竜神池(弁天池)を覆い、その姿が龍に似ていることから「龍冨山」とされ、老松をめでて「松秀寺」と名付けられた。慶長2年(1597)家康公より朱印12石拝領。本尊地蔵菩薩は行基(668〜749)作。その昔、福田地先の海岸に漂着したものを、村人達が拾い上げて路傍の仏堂に祀ったものであると伝えられる。合祀する文珠菩薩・瑠璃光如来は平安時代の作で、平治の乱(1159)に敗れ、落ちのびて来た源義朝(1123〜60)を謀殺した長田忠致(生没年不詳)の子孫が、この辺りの百姓に身を変えて移り住み、一族の念持仏として崇敬していたものであった。十一面観音は、明治維新の折、松秀寺に奉安されたものである。明治初期に建立された本堂は、可睡斎に売却された。(現在の可睡斎本堂)。再建された本堂も昭和19年(1944)東南海地震で倒壊し、現在の本堂は戦後に再建されたものである。
 秘仏の薬師如来淤は、12年に一度寅年にご開帳されるが、前回は平成10年(1998)であった。平成12年(2000)は松秀寺開創500年の大法要の年にあたり、池の修理がなされた。

 (注)長田長致
 (注)源義朝と野間大坊

  ◎山門

 寛永年間(1324〜42)建立。扁額「龍冨山」は名僧・古渓和尚(1532〜97)の書。
 ◎東照薬師如来
 かつて東照山平福寺に祀られていたが、廃寺となり松秀寺に合祀され、松秀寺の飛び地境内に祀られていたもので、その堂宇は後鳥羽天皇(1180〜1239在位1183〜98)の創建と伝えられる。その後、足利義満(1358〜1408)が復興し更に、徳川家康が再興したといわれる。家康が浜松城主の頃、磐田の近くに御殿と呼ぶ狩り場があったが、よく狩りに来ては、この東照薬師如来に祈願され、特に「東照」の名称が気に入り、後に「東照君」と呼ばれるようになったという。
   願書には一、息災長久 一、心中取願 一、眼病平癒
  右の願成就 堂建立仕候也 慶長2年丙年吉日 内大臣家康
  「あきらかに ひがしをてらす おんちかい
         そのいをわれに ゆずりたまわれ」
   家康は天下統一後、江戸増上寺や浅草摩利支天で、出開帳を行っていた。
 ◎石仏…山門横の小堂に数体

 元禄6年(1693)の銘のあるもあり。
  「浅観音」と称し、朝早く参拝すると、足や腰の痛みに霊験あらたかと伝えられる。





 ◎弁天池の睡蓮…6月中旬〜8月の午前中が見頃。










(5)浅羽町の万葉歌碑
 @「紅の浅羽の野良」の歌碑 浅羽町図書館敷地内 平成4年3月
 
  紅之 浅葉乃野良尓 苅草乃 束之間毛 吾忘渚菜(作者不詳)
(読み)
  紅の 浅葉の野らに 苅る草の 束の間も 吾を忘らすな
(訳)紅色の染色の「浅い」ではないが、「浅」の名を持つ残業の野で刈る菅の束、その束の間も私をお忘れにならなで下さいな。

 A「浅葉野の菅の根」 浅羽町梅山 八幡神社境内
 
  浅葉野 立神古 菅根 惻隠誰故 吾不恋(柿本人麻呂歌集)
(読み)
 浅葉(あさは)野(の)に 立(た)ち神(かむ)古(さ)ぶる 菅(すが)の根(ね)の 惻隠(ねもころ)誰(た)が故(ゆえ) 吾(あ)が恋(こ)ひなくに
(訳)浅葉野に立ち神々しくなっている菅の根ではないが、心から外の誰かのために私は恋をしたりしないのに。