(1)見付宿について
(1)見付宿について
(2)東福山西光寺
(3)西木戸跡と姫街道入口
4)一ノ谷中世墳墓群遺跡
(5)西坂の梅塚
(6)本立山玄妙寺
(7)大梅山慈恩寺
(8)見付学校
(9)磐田文庫
(10)淡海国玉神社
(11)旧見付宿脇本陣大三河屋門
(12)嶺松山省光寺
(13)日照山大見寺
(14)珠玉山宣光寺
(15)矢奈比売神社
(16)愛宕神社と阿多古山一里塚
(17)遠州鈴ヶ森
(18)松光山慶岩寺
(19)今浦山金剛寺
(20)瑞雲山見性寺
(21)旧赤松家
(22)風祭山福王寺
※磐田市の観光パンフレット

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(はじめに)
 東西約1km程の東海道の宿場町。ここは江戸時代には交通の要衝として栄え、多くの物資が集められたことから多くの蔵が建てられ、また寺院・神社が点在している。
 見付本通りの歩道上には、「17小路(しょうじ)」の案内板が埋め込まれ、寺院・神社・史跡等の位置が記されており、史跡巡りには便利である。
 これらを参考にして見付本通りを中心に、またその周辺の史跡まで足をのばしてみた。
          「磐田市のホームページ」参照

(1)見付宿概要
  ○日本橋から60里17町45間(237,6km)
    江戸日本橋より28番目の宿場
  ○袋井宿へ1里十八町(5,9km)
  ○浜松宿へ4里七町(16,4km)
  ○宿内人別  3,935人(男 1898人 女2037人)
  ○宿内惣家数 1029軒(本陣2脇本陣1旅籠56)
  ○道中の運賃
    駄賃・賃銭  荷物一駄・乗掛荷人共234文
             軽尻馬一疋151文
             人足一人117文
             一駄とは馬一頭に負わせた荷物
  • 本馬(ほんうま) 一駄40貫までの荷をつけた馬
  • 軽尻(からじり) 荷なし、あるいは空尻(からじり)とも書いた。荷を付けない馬をいうが、5貫目までの荷をつけることが認められている。
  • あぶ附(づけ) 鐙附(あぶづけ)・鐙(あぶみ)のように馬の両脇に付ける意から、乗掛馬の両脇に小荷物をつけることをいう。
  • 乗掛(のりかけ)人が乗って同時に荷を付けること。この荷を乗尻(のりじり)あるい乗掛下ともいうが、20貫まで認められる。賃銭は本馬と同じ。乗掛荷人共というのは乗掛を丁寧にいったもの。
  • 人足(にんそく) 5貫目までの荷を背負わせることができる。それをこえると目方に応じて値段を増した。賃銭は本馬の半分が標準。
                「今昔東海道独案内」    P14

 (2)見付の地名の由来
 ○最初に富士山が見えたことに由来する
  江戸時代の資料に「(西から来て)此所より富士の山初めて見ゆる。天気晴し時は三州路にも見ゆる」という記事から、「見付」は京都より江戸へ下る時に、はじめて富士山が見えたことから付けられたといわれる。
             「広重と歩こう東海道五十三次」 P67
 ○「水付き」の意味に由来する
  川沿いや海沿いの地に見られる。磐田市見付は古代に海水が「今之浦」に湾入しており、ここが「入り海海付」の地であったことにちなむといわれる。
  新潟県見附市は信濃川沿いの地であったことに由来するといわれる。

(参考)その他
 ○「見付ける」に由来
  能登の「見附島」(別名・軍艦島)は弘法大師(空海)が、佐渡志摩(新潟県)から能登に布教に渡った時に、「最初に目についた島」であると伝えられる。
 ○「見張る」という意味に由来する
  隠岐の見付島(鳥取県西ノ島大字別府)は、黒木御所(行在所)に幽閉されている、天皇を監視する北条氏の武士が「見張る所」を設けたという伝承がある。また江戸時代九州の見付島(熊本県芦北町)は、球磨往還の見張所に由来するという。この「見張る」という意味の場所は、城郭にも見られる。枡形(ますがた)をもつ城門の外側に面する部分で、門の外を見張る番人が立つ場所を「見付」といい、これが地名となった所もある。
  京都市見付町は、伏見城の見付があったことに由来するといわれる。また江戸城の城門にも見付があった。江戸城では一般に「三十六見付」といわれる。
           「地名の由来」別冊歴史読本  P50
 
舞阪宿(浜松市西区舞阪町)の入口には、宿場への立ち入りを監視するために設けた「見付石垣」が残っている。
 
 舞阪宿「史跡見付石垣」参照

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