(20)瑞雲山見性寺
(1)見付宿について
(2)東福山西光寺
(3)西木戸跡と姫街道入口
(4)一ノ谷中世墳墓群遺跡
(5)西坂の梅塚
(6)本立山玄妙寺
(7)大梅山慈恩寺
(8)見付学校
(9)磐田文庫
(10)淡海国玉神社
(11)旧見付宿脇本陣大三河屋門
(12)嶺松山省光寺
(13)日照山大見寺
(14)珠玉山宣光寺
(15)矢奈比売神社
(16)愛宕神社と阿多古山一里塚
(17)遠州鈴ヶ森
(18)松光山慶岩寺
(19)今浦山金剛寺
(20)瑞雲山見性寺
(21)旧赤松家
(22)風祭山福王寺
※磐田市の観光パンフレット

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 (1)宗派 臨済宗(京都・妙心寺末)    現地説明板
 (2)本尊 如意輪観世音菩薩
 (3)沿革 創建年代不詳。文明年間前後(15世紀後半)、一時寺門の興隆した時期があった。
見性寺入口 本堂

 (4)主な文化財
  @五鈷…磐田市指定有形文化財 昭和39年11月3日指定
  正しくは五鈷金剛鈴といい、密教の修法で用いる青銅の鈴。隠元禅師の遺品と伝えられる。平安時代の作。高さ16,7cm残念だが「鈷」の一つが折れている。
  ※鈷…もともと「鈷=もり、魚をとる道具」の形からきたもので、修行の邪魔になるものを、追い払う意味が込められている。鈴の先にこの「鈷」が5つついていることに由来する。

 A「繍十六羅漢図」
…磐田市指定有形文化財 昭和37年11月3日指定。
 釈尊の出家の弟子で悟りを得た十六人の尊者(十六羅漢)の姿が、蓮の糸で刺繍・彩色されたと伝えられるすぐれた作品です。縦132,7cm、横73,7cm、幅16cm。寺伝では、中国呉道玄(呉道子の別称、生没年不詳。中国盛唐の画家)の作と伝えられるが、石田茂作氏の鑑定では、中国明時代の作。

 B不動三尊立像…
磐田市指定有形文化財 昭和46年10月27日指定
  当寺の末寺・明王寺(市内河原町)の本尊で、大日如来が一切の悪魔を打ち破るために忿怒の相を現した立像です。高さ145,5cm、左右に脇士・矜羯羅童子(こんがらどうじ)・制叱迦童子(せいたかどうじ)がはべり、一木造りです。藤原時代作。

 ※当寺にはこのほか室町時代から江戸時代へかけての多くの宝物があり、毎年8月24日に虫干しをかねて、一般公開されます。

 C山門の扁額…伝隠元(1592〜1673)禅師筆   
黄檗隠元書

 ◎隠元(1592〜1673)
  日本黄檗宗(おうばくしゅう)の開祖。明の福建省福清の人。名は隆g(りゅうき)。承応3年(1654)日本に渡来。山城国宇治に黄檗山万福寺を創建。語録・詩偈集(しげしゅう=仏教の真理を詩の形で述べたもの)など開版されたものも多く、その書は茶席の掛軸として珍重される。諡号「大光普照国師」。
 
 D見性寺貝塚
   昭和43〜4年(1868〜9)発掘調査、縄文時代後期〜平安時代までの遺跡。

 E3基の句碑…大正年間に建立。向かって左から、
  「開けて見る障子にもあり今朝の月」 七十七齢汀鴎居士
  「梅が香にのっと日の出る山路かな」 はせを高吟
  「逃げて行く岬の海やなつの月」   知碩翁吟 汀翁拝書
 ※汀翁…見付の人。本名野末重次郎といい、3基の句碑は自分の喜寿の記念に建立したもの。
 ※知碩…本名加藤吉重。汀翁の直接の師匠。 
句碑(中央が芭蕉の句碑)

 F日本駄衛門の墓    「現地説明板」
   本名  浜島庄兵衛(1717〜47)
  享保2年(1717)尾州七里役所勤めの足軽友衛門の子供として金谷に生まれ幼名を友五郎と云う。少年時代身不埒にて勘当され無宿人となり、名を庄兵衛と改め無宿人仲間の頭領となり、手下二十余人連れ美濃・尾張・遠江その外六七ヶ国に押し込み強盗且し義賊的行為(富農から取った金銀を貧民に施す)をす。主な輩下に今弁慶・赤池法印・岩淵の弥七・中島唯助・中村左膳であった。
  延享4年卯正月廿八日(1747)廿九歳にて牢に入る。江戸中を引き回しの上、3月11日江戸町奉行能勢肥後守により、遠州見付市中引き回しにて三本松に於いて獄門打首となる。 当寺染綿布一端、鳥目五十疋を収納し戒名「償終元債禅定門」と定め、当山墓地に埋葬し現在に至る。
                 瑞雲山 紀綱寮
日本左衞門の墓

 (参考)日本左衛門   「掛川市史 中巻
  本名浜島庄兵衛、生まれは岡山県とも遠州見付ともいい、死んだ場所も静岡とも見付ともいう。その生涯については不明な点が多い。
  何十人という仲間と徒党を組み、金持ちの家に押し入り、家の人間すべてを縛り上げ、金品を残らず取っていったという。
  被害総額は金だけでも、総計2,7000両に及び、駿府でも強盗を働き、駿府の役人と大立ち回りを演じた。江戸奉行所は人相書きで、全国指名手配し、延享4年(1747)京都東奉行所に出頭し、京都より江戸に送られ処刑された。
  
(参考)日本左衛門の首塚   金谷町宅円庵 「現地説明版」

 日本左衛門は、本名を浜島庄兵衛といい、生まれは定かではないが、遠州浜松在ではないかといわれています。
 歌舞伎の「青砥縞花紅彩画」(白浪五人男)で日本駄右衛門のモデルにもなりました。義賊といわれ、盗みはするが非道はしないというのが身上で、金持ちの蔵を破り、生活困窮者に盗んだ金をばらまいたという説もあります。
  詮議の手が廻り、もはや逃れないことを知った日本左衛門は、京都で自首しました。そして、江戸に送られて処刑され、根城としていた見付宿(現在磐田市)でさらし首になりました。
   辞世「押取の人の思い羽かさなりて
           身に青綱のかかる悲しさ」    と詠んでおります。
  金谷宿の「おまん」という愛人がひそかに見付宿から首を持ち帰り、この宅円庵に葬ったものです。
               金谷町・金谷町観光協会
金谷宅円庵 日本左衞門の首塚
日本左衞門の首塚 首塚の説明板


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