(13)日照山大見寺
(1)見付宿について
(2)東福山西光寺
(3)西木戸跡と姫街道入口
(4)一ノ谷中世墳墓群遺跡
(5)西坂の梅塚
(6)本立山玄妙寺
(7)大梅山慈恩寺
(8)見付学校
(9)磐田文庫
(10)淡海国玉神社
(11)旧見付宿脇本陣大三河屋門
(12)嶺松山省光寺
(13)日照山大見寺
(14)珠玉山宣光寺
(15)矢奈比売神社
(16)愛宕神社と阿多古山一里塚
(17)遠州鈴ヶ森
(18)松光山慶岩寺
(19)今浦山金剛寺
(20)瑞雲山見性寺
(21)旧赤松家
(22)風祭山福王寺
※磐田市の観光パンフレット

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 (1)宗派 浄土宗京都・知恩院派
 (2)本尊 阿弥陀三尊仏
 (3)文化財
  @見付端城
  当寺一帯は中世に今川氏の城館・見付端城(古城)の一画をなし、元禄期の絵図や付近の試掘調査 などにより、その存在がほぼ確認されました。境内の南・西にわずかに残る土塁跡により往時をしのぶことができる。
山門 本堂
幸吉の翼(想像模型図) 本堂内部 土塁跡

 A良純法親王供養塔
良親王は百七代後陽成天皇の第八皇子で、慶長9年(1605誕
生、寛文9年(1670)薨去されました。寛文9年(1670)薨去されたが、当寺第一代呑誉禿翁(どんよとくおう)和尚は。良純親皇の弟子であった関係から、親王供養のため建てた無縫塔である。もとは、当寺末・徳翁院(市内富士見町)に安置されていたものである。
  親王は、京都知恩院の上首(じょうしゅ=長老)になったが、徳川家康(1542〜1616)と不仲になり、甲州(甲斐・山梨県)に流刑されたが、のち許されて帰国の途中、万治2年(1659)頃、縁あって見付に滞在した。弟子であった大見寺第1代住職により親王の死後分骨して、この寺に葬り供養塔が建てられた。 親王はまた「加茂川」などの地名の名付け親でもある。 
良純親王の墓(中央の卵塔)
  
 ◎無縫塔(むほうとう)
  塔婆(卒塔婆)の形式の一つで四角形・ハッカ形の台座の上に、塔身が卵形をなしたものをいう。卵塔とも呼ばれ、禅僧の墓標としてしばしば用いられた。 
       「ブリタニカ国際大百科事典」より

 B伝・鳥人浮田幸吉(?〜1851)の墓
   墓標下壇に「浮田氏墓所」と左書。墓碑「釈帝玄居士」。わが国で初めて飛行機を作り、大空を飛んだといわれる。宇喜田秀家(1572〜1655)の後裔というので、浮田幸吉と称したともいう。25〜6歳の頃、鳩(一説には雀)の身体と翼の比例から、自分の体重に合わせて翼を作り、天明6年(1786)備前岡山の旭川の橋の上から河原に飛んで捕らえられ、翼を取り上げられて所払い(ところばらい=江戸時代の自由刑の一つ。一種の追放刑。その居住地から追放すること) になった。諸国を放浪の上、35〜6歳の頃(静岡市)江川町に落ち着き、備考斎幸吉を名乗り、初めて時計師をしたが、のち「入れ歯師」として有名になった。次第に弟子もでき、2代目備考斎もでてきて、静岡では備考斎は歯医者の代名詞となった。駿府に来てからも、浅間山から服織(はとり)の建徳寺(たきようじ)迄飛んだとか飛行の話が伝えられている。62歳で死に静岡市大工町福泉寺に葬られた。
  地元見付では、静岡も追放になり見付宿に来て、侠客(きょうかく)大和田友蔵の世話になり、飯屋を営みこの地で90歳で弘化4年(1847)没した。ライト兄弟が北カロライナ州で、人類最初の直線飛行に成功したのは、1903年である。
浮田幸吉の墓 幸吉の住居跡

(注)侠客
(注)町奴
(注)新門辰五郎(1800〜75)


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