2 宿内散策
東海道・浜松宿を歩く

 1 浜松宿 概要
 (1) 浜松宿について
 @宿内人別
 A宿内惣家数
 B浜松宿往還
 C本陣

 2 宿内散策
 (1)大手門跡〜中番所跡
 @大手門跡
 A曳馬坂
 B高札場跡
 C五社公園周辺
 D中番所跡

 (2)松尾神社〜本称寺
 @松尾神社
 A木村竜江墓碑跡
 B本称寺

 (3)東漸寺〜西番所跡
 @東漸寺
 A西導寺
 B法林寺
 C西番所跡・泣き子地蔵尊跡
 
 
(1)大手門跡〜中番所跡
 @大手門跡
        (現地説明板)(1)
 この付近の道路中央部に、浜松城の正門つまり大手門がありました。南面する間口8間(約14,6m)奥行き4間(約7,3m)の瓦葺の建物で、つねに武器を備え、出入りを厳しく取り締られていました。

        (現地説明板)(2)
 徳川家康(1542〜1616)が築城し、17年間(元亀元年〜天正14年=1570〜86)にわたって居住した浜松城の正門が大手門です。間口8間(約15m)奥行き4間(約7m)の瓦葺だったといわれています。東海道に接し、天下の往来を眼前に控え、城内の出入りは厳しく取り締まったものと思われます。
 ※裏門は「搦手」(からめて)という。
 
 A曳馬坂  (現地説明板)なし
  通称高町の坂。紺屋町から高町に通ずる坂。坂の途中に「半僧坊」。昔は「石だたみ」の坂。浜松城天守への上り口(美術館側)と浜松中央図書館への登り口に、当時の石だたみが残っている。半僧坊付近から気賀・金指方面に乗合馬車が出ていた。半僧坊入口の階段付近に「馬車の立場跡」の木柱。

 
B高札場跡……谷島屋書店前付近
         (現地説明板)(1)
 この付近の車道中程に、柵で囲い柱を立てて高札を掲げた高札場がありました。城下・宿場の人々に罪状などを周知させるために書かれた木札を「高札」とか「制札」といいます。
         (現地説明板)(2)
 人々の往来が多く目立ちやすいとして、この地に「御触書」(おふれがき)などを掲示する高札場がありました。高札場では主に忠孝札・切支丹札・火付禁止札・毒薬札・駄賃定札が掲げられました。

 (注)高札について

 C五社公園周辺
 ◆森 暉昌邸跡(利町) 石柱のみ 現平野邸 現地説明板なし
  森暉昌(1685〜1752)
 森氏は、代々五社神社の神官として、五社神領300石を領知(領有)。幼少より家庭に学び、宝永元年(1704)荷田春満(1669〜1736)に入門。賀茂真淵(1697〜1769)は親しく、暉昌の薫陶を受けその篤実な人柄や、尚古思想から多くの感化を受けた。舎人親王(676〜735)千年祭には祝詞を撰し、この地方における神職として常に指導的地位にいた。宝暦2年(1752)6月14日没。享年68才。五社神社裏の清水谷に葬る。賀茂真淵撰になる暉昌の事績を記した「光海霊神」(うなてりのみたま=暉昌の諡号)の碑銘は、五社神社入口右手にある。

 (注)荷田春満・舎人親王

 ◆五社神社・諏訪神社
  ◎五社神社・諏訪神社 御祭神並御由緒  (現地説明板)
   御祭神
    五社神社 大玉命 武雷命 齋主命 天児屋根命 姫大神
    相殿   応神天皇 舎人親王 菅原道真公 徳川家康公
    諏訪神社 建御名方命 八坂刀売命 事代主命
    相殿   徳川家康公 
   御由緒
 五社神社 国主久野越中守曳馬城(浜松城)内に奉斎す。徳川家康公浜松城に入り、天正7年(1579)4月7日秀忠公(1579〜1632)浜松城内に誕生、産土神として崇敬し、天正8年(1580)常寒山(とこさむやま=現在地)に社殿建立し遷座す。寛永11年(1634)家光公(1604〜51)上洛の節、社参奉幣三百石の朱印を奉る。大正3年(1914)国宝建造物に指定される。
諏訪神社 坂上田村麻呂(758〜811)東征の砌(みぎり=折)奉斎す。徳川家康公尊崇し、社殿を造営し、家光公更に現在地に遷座し、朱印三百石を奉る。昭和13年(1938)国宝建造物に指定されるも、昭和20年(1945)戦災により、五社神社と共に悉く皆焼失せり。
五社神社・諏訪神社
 昭和35年(1960)両社合祀、新たに語者神社・諏訪神社として発足す。昭和47年(1972)神社本庁別表神社に列格。現社殿は市民の奉讃のもと5カ年の歳月を費やし昭和57年(1982)竣工す。
例祭日  五月四日

 (注)五社・諏訪神社 「浜松市神社名鑑」より

 ◎「光海霊神」(うなてりのみたま)の碑
       (現地説明板)
  賀茂真淵大人(うし)がその師。五社神社神主・森暉昌大人の功業を記したる漢文体の誌銘なり。真淵大人の心情を遺憾なく吐露せしものなり。森暉昌大人の諡号を「光海霊神」と称す。近世国学の創始者荷田春満大人の門流にして、賀茂真淵大人若年の学父とも尊親したる碩学なり。この碑は明和4年(1767)5月建立せられる。
 
 ◎「高力忠房寄進の手水鉢」
       (現地説明板)
 徳川三代将軍家光公、寛永11年(1634)7月当社に参詣あり。時の浜松城主高力忠房を普請奉行として、社殿を修造せしむ。完成の後、本手水鉢を寄進す。この手水鉢は、花崗岩を素材とす。四方に枠取りなく素朴なる形式と水穴深く、角を正確に掘りたるは古き形式に属し、貴重なる文化財なり。
    正面につぎの如く刻す
     奉寄進      遠江國浜松
     五社大明神       廣前
     寛永十五年戌寅年5月吉日
     高力摂津守従五位下  平忠房
 高力二代忠房は将軍秀忠の寵を得、元服の際「忠」の一字を賜り、「忠房」と名乗る。温厚篤実なる人格は、領民に敬慕されたり。

  ※忠房の死後、その子高長(隆長)が後を継いだが、父親ほどの力量もなく、その上失政も多く、領民の訴えで寛文8年(1668)除封(じょほう=領地没収)され仙台に流された。

 (注)高力摂津守忠房

 ◆杉浦国頭邸跡  現五社公園 現地説明板なし。石柱のみ
     杉浦国頭(1678〜1740)について
 杉浦家は13代目直信が三河から浜松に移り、その弟信定が後
を継ぎ、永禄11年(1568)12月、徳川家康が引馬城に入る時、出迎えてこれに仕えた。信定以来代々諏訪神社の大祝(おおはふり=神職)となり、国頭はその6代目。国頭は延宝6年(1768)8月23日、医師渡邊竹庵の次男としては浜松後道(うしろみち=市内千歳町)に生まれた。幼名忠成、諏訪神社の社家(神職)杉浦家を継ぎ、大学と称した。天和3年(1683)6才で大祝に任命され、のち国頭と名乗り、志水と号した。元禄16年(1703)江戸神田明神神主芝崎好高の紹介で、荷田春満に入門和歌を学びその姪(政子とも云う、のち真崎)を娶った。宝永2年(1705)以後、特に享保5年(1720)自宅で月並歌会を開き歌道を広め、享保13〜14年(1728〜9)には浜松の有志に百人一首を講義し、師・春満の所伝の説を普及し、享保19年(1734)には舎人親王千年祭を挙行して尽敬会(じんけいかい)を創立した。春満も京都と江戸との往還の途次には、しばしば杉浦家に立ち寄り歌の指導をし、国学は浜松を中心として遠州各地に広まった。
 杉浦国頭は森暉昌と共に、当時浜松における国学の中心的存在であったが、殊に賀茂真淵の在郷時代の師であり、真淵を春満と結びつけ国学者として大成させる上で欠くべからざる人物であった。このように杉浦国頭は、遠江国学の始祖として浜松文化の開拓者として活躍し、元文5年(1740)6月4日没した。享年63才。墓所は中島六本松(市内中島町)にある。
      「浜松市史」 「静岡大百科事典」

 (注)「杉浦國頭墓所」(中島町)

  ◆五社公園内の石碑群
 ◎「戊辰之役報国隊記念碑」(現地説明板)なし。記念碑のみ。
   明治40年11月建之
 裏面に軍務省沙汰書き写しと、出征者88名・隊員60名・寄付者112名を列記(浜松市石造文化財所在目録)
     碑文「静岡県史跡名勝誌」復刻版 P264〜5
「浜松市利町五社神社境内にあり、報国隊は遠江神職を主とせる勤王義団なり。初め幕政を失ひ、海内漸く騒然たるに当たり、遠江の神職及有志相謀り、名を歌会に藉りて、一団体を作り、緩急皇家の為に身を致さむ事を約して時期の至るを待つ。かくて戊辰の春(1868)「伏見戦争」(鳥羽伏見の戦い)の報を得、今こそ可なれと主盟者より檄を発したりしに、来たり集まるもの三百余名、隊伍を部署して報国隊と号す。恰も有栖川宮東総督として東下せらるるに会し、仍て之を今切に迎へ天竜川に護衛し、赤誠を披瀝して従軍を請ふこと再三に及びて遂に許さる。即ち壮士八十
七人を選びて総督宮の護衛に任じ四月十五日扈従(こしょう)して江戸城に入り、爾後勤労を以て賞詞物品を下賜せられ、十一月左の感状を受けて一同郷に帰りぬ。
春来大総督に随従致し不一方勉強の段神妙の至りに候今般東北平定に付帰国申付候得共緩急奉公可致旨御沙汰候事
    十一月   軍務官            

 王政維新国事多難の時に方り、勤王の士の四方に起れるもの尠なからざりしが多くは雄藩の士若くは依れる者にして、報国隊の如く草莽より起こり、而も烏合の団隊にして能く公の実を挙げ、かゝる名誉を享けしは稀なるべし、明治三十年同志相謀り、碑を建てゝ此の勤王団の事績を不朽に伝ふ。

 (注)報国隊について

 ◎「鳩の塔」 大正8年(1919)5月15日建立。
   帝国在郷軍人会浜松連合分会の発起で、浜松尚兵義会が建立。
  「誠忠碑」(慰霊碑)と呼んだが、第二次大戦後「鳩の塔」に改名。
  ★日清戦争(1894〜5)日露戦争(1904〜5)第一次大戦(1914〜8)の戦死者の霊を祀る。
 





◎「男爵前田正名君碑」 大正12年(1923)建立
   公爵松方正義題額 碑文 平山成信撰 中邨利隆書
   五二会遠江支部が建碑を企て、浜松市ほか9団体が賛助して建立。
   前田正名(1850〜1921)
  明治期の経済官僚。産業運動指導者。鹿児島藩医の家に生まれる。約7年間国費でフランス留学を経て、明治10年(1877)帰国。中央官僚として輸出品中心、地方産業優先の近代化を主張。1874年体系的経済計画である「興業意見」の編纂を農商務省内で始めるが挫折。1890年農商務次官となるが半年で辞任。のち、在野で地方産業の振興につとめ、近代日本の「殖産興業」に尽力した。「山梨ワイン」「日の丸弁当」の創始者。
 ◎「浜松市歌」の碑  昭和46年(1971)7月1日制定
            森 林太郎(鴎外)作歌
            本居長世     作曲

   大宮人の旅衣
   入りみだれけむ 萩原の
   昔つばらに たづねつる
   翁をしのべ 書をよまば

   國の乱れを しづむべき
   いさをのもとと この里に
   城の礎 かたむけむ
   人な忘れそ 銃とらば

   引馬のうまや さまかへて
   よろづの業の 進むなる
   いざもろともに 謀りてむ
   わが浜松の 市のさかえ

(注)森鴎外

 ◎「万葉歌碑」 平成8年(1996)建立
  浜松市市制85周年紀年と賀茂真淵生誕300年紀年として浜松市が建立。

   引馬野爾仁保布榛原入乱
   衣尓保波勢多鼻能知師尓
        万葉集遠江歌考    真淵

 ※「万葉集」巻第一 57
 (原文) 二年壬寅 太政天皇幸干参河國時歌
    引馬野尓 仁保布榛原 入乱 衣仁保波勢
    多鼻能知師尓
     右一首   長忌寸奥麻呂
 (読み)二年壬寅(じんいん) 太政天皇(おほきすめらみこと)参河國に幸(い      でま)す時の歌
  引馬野に にほふ榛原(はりはら)入り乱れ 衣にほはせ
  旅のしるしに
  右の一首  長忌寸奥麻呂(ながのいみきおきまろ)
 (意味)大宝二年(702)太上天皇が三河國に行幸された時の歌
    引馬野の 色づく榛(はんのき)の原に いりまじり 衣を染めよ
    右の一首は 長忌寸奥麻呂

(注)曳馬野について

 ◎その他
  ◆行幸記念碑  1932年建立
 











 ◆浜松市消防殉職者慰霊碑 
    「愛郷」の題字とブロンズ像   1966年建立
 






 D中番所跡  伝馬町下伝馬東側 もと「思案橋」北詰
   ※東番所跡…馬込橋詰南側
   ※西番所跡…成子坂(現滝口歯科角)
   ※北番所跡… 鹿谷緑地付近?
     いづれも「現地説明板」なし









 (2)松尾神社〜本称寺
 @松尾神社
   「現地説明板」(1)
    松尾神社
 鎮座地 浜松市元魚町29番地
 御祭神 白鬚大神・大山咋神・厳島姫神
 例祭日 六月十五日前の土曜日
 由緒  当社は和銅年間(708〜15)で、浜松神社といい、白鬚神
を主神として奉斎する浜松の総社であります。猿田彦神ともいわれ、八方除・寿命守護の神様として、遠く三河地方にまで崇敬が及んでいます。その後、天正5年(1577)浜松城内の守護神をこの浜松神社に合祀し、松尾神社と改名しました。歴代の浜松城主の祈願所として崇敬を受け、明治元年(1868)明治天皇(1852〜1912在位1867〜1912)より御使用のお茶碗を下賜されました。
   
   「現地説明板」(2)
 主祭神は猿田彦神・白鬚大神家康公から徳川家の家紋である「三つ葉葵」の使用を許可され、歴代の城主の祈願所として崇敬を受け、松飾りを贈る習わしがあったといわれています。

 ◎天満宮…松尾神社境内
 由緒  社伝によれば、江戸末期七軒町・上新町(現菅原町)の氏神として太宰府天満宮を勧請したのに始まる。もと稲葉山山麓(呉竹荘裏山の東)にあったが、明治7年(1874)元魚町松尾神社境内内に遷座。現建物は昭和63年(1988)再建したもの。

 
A木村竜江(183(〜64)墓碑跡
      ※木村竜江(1838〜64)について
 天保9年(1838)浜松生。名を庸行。通称恒蔵、号を独笑迂人。14〜5才の時藩校克明館入学。後に江戸に出て林祭酒に入門。特に詩文に長じた。さらに昌平黌に移り、学を終えて浜松に帰り多くの門人を指導した。
 元治元年(1864)12月没。享年27才。平田町西見寺(西鴨江に移転・花学院)に葬られた。元魚町に竜江と交友の深かった名倉予何人(あなと)撰文の碑銘(花学院に移転)が彼の伝記を知る資料。
     ※名倉予何人について
 名を信敦、通称重次郎、号を松窓。父は浜松藩主井上河内守に仕えたが、藩主の国替に従って奥州棚倉(福島県)に移り、弘化2年(1845)再び浜松に移封となり郷里に帰り、浜松藩藩校克明館教授となった。また維新前後4回にわたり、幕府使節に随行し清国・フランスに渡航した。
 この時、若宮小路(市内大工町)の安倍保太郎は随行を許され、砲術見習いを名目に、実は支那貿易を調査したといわれている。
 著書「海外日録」・「壮遊日録」・「航海日録」「遠江紀行」などがある。
明治34年(1901)1月東京で没した。享年81才。

 B雙龍山本称寺   浄土宗本願寺派(西本願寺)
 ◎沿革
 貞永元年(1232)恵心坊僧都専海により開創。創建当時は池田荘鶴見にあったが、慶安5年(1652)現在地に移った。万治2年(1659)本願寺13世良如上人から「浜松御坊」の指定を受けた。 寛文5年(1665)・享保8年(1723)と2度にわたり、西隣地白山二諦坊の火災で類焼し悉く灰燼に帰した。延享5年(1748)「浜松御坊」より現在の山号・寺号で独立し、浜松城主松平富之助資昌(1744〜62=在城期間1752〜58・丹後宮津に転封)の援助のもと、宝暦6年(1756)伽藍の再建を見たが、安政元年(1854)の大地震の際の火災で本堂と山門を残すのみとなった。現在の鉄筋コンクリート方形造りの建物は昭和42年(1977)に再建されたものである。

 ◎墓標
  ◆医師渡邊直之の墓
    享保19年(1734)10月
    門人森正之・江塚吉甫・今津尚貞による墓誌。
  
  ◆渡邊蒙庵の墓
    安永4年(1775)2月27日
    孝孫渡邊質・門人鈴木廉の建立
    稲垣長章識の墓誌

 (注)渡辺蒙庵について

 ◆普照院釈浄空の墓
    文化14年(1817)嗣子開空建立
    藤田敏撰・小沢有親書による墓誌
  ◆岡田喜久太郎の墓
    明治11年(1878)
    「名月残る灯にちからなし露の窓  魚友」

 ◎灯籠
   秋葉灯籠  明和6年(1769)
   「秋葉山」「永代常夜燈」「本魚中」
 





 ◎手水鉢
   「御坊」と刻む。
  ※御坊…寺院・僧侶の敬称。「御房」とも。








 (3)東漸寺〜西番所跡
 @林宝山東漸寺
  法華宗陣門派。総本山長久山本成寺(新潟県三条市)
        「現地説明板」
 1543年(天文12)に開山された法華宗のお寺。引馬城主飯尾豊前守乗連公のお墓である変形五輪塔があります。曼荼羅を本尊とし、日蓮上人を祀っています。
 ◎沿革
 もと日蓮宗本成寺派鷲津本興寺末。開基は天文12年(1543)今川の家臣引馬城主飯尾豊前守乗連が、母の菩提所として鷲津本興寺9世日礼上人を招き、開山として創建。初めは浜松城内にあったが、慶長年間(1596〜1615)堀尾帯刀吉晴(1543〜1611・在城期間1590〜99)の頃、現在地に移転した
 
 ◎墓標
  ◆飯尾豊前守乗連の墓…五輪塔
  
 










◆岩城善左衛門康親の墓…無縁墓  松平伯耆守資俊(1660〜1723在城期間1702〜23)の家老。











 ◎句碑 「語りゆく下駄音軽しおぼろ月」 物外 (庫裡入口)








◎鬼子母神
  飯尾乗竜(連竜)に子なく、開山日礼のすすめで鬼子母神に願かけしたところ、男子(義広)が誕生したとの言い伝えがある。

 (注)飯尾氏と凧揚げ伝説・酒井真邑の「浜松城記」
 

 A常光山聖徳院西導寺
    釈宗太子教
    遠江西三十三所観音霊場
    浜松手引き観音九番札所
  
 ◎遠江國風土記伝
「成子に在り。浄土宗鎮西派浜名郡芳川村西伝寺末。本尊阿弥陀如来。境内敷地四百六十五坪」

 ◎由緒
 寺伝に云ふ。開山三蓮社寶譽秀観、天正三年(1575)草創。
享保6年(1721)祝融(火災)の災いに罹り、諸堂及び旧記禄悉く焼亡。従前平僧(位のない普通の僧)地たりしが、十五世誓譽代慶応2年(1866)香衣地に進む。
  「浜松市史 全 大正15年刊 復刻版」

 ※浄土宗寺院から昭和26年(1951)三十代中野行益師の時、聖徳太子の「17条憲法」を基本とした「釈宗太子教」を創設し、本山とした。 
        「わが町文化誌」
 
 ◎「不空羂索観音」(ふくうけんじゃくかんのん)
  門を入りすぐ左側。 「手水鉢」の左側 高さ90cm×30cmの角柱をくりぬき、30cm×20cmの像。右手に払子(ほっす)。左手に縄
 (注)払子
  仏具の一つ。長い獣毛(馬の尾毛など)や麻を束ねて柄をつけたもの。もと は蚊やはえなどを追い払うために、インドで用いられ仏教では古くから実用だけでなく、「煩悩のはえ」を払う意を寓した儀式用具とした。日本では真宗以外で、導師が装身具として手に持つ。

 ※不空羂索観音
  六観音・七観音の一つ。大慈大悲の羂索を以て浮沈する一切の衆生を済度することを本願とする変化観音。形像は一面あるいは三面で、四臂・六臂・八臂などもあるが、多くは一面三目八臂に表わされ、手に羂索を持ち、肩には鹿皮を着ける。鹿皮観音。十一面観音と同じく信仰は古く、奈良時代から造立されている。最も代表的なものは、東大寺三月堂の本尊で、一面三目八臂の姿である。
 ※済度…仏・菩薩が苦海にある衆生を済(すく)い出して、涅槃(仏教の究極的目標である永遠の平和・安楽の世界)に度(わた)らせること。

 ◎手水鉢 文政3年(1856)9月 「白露盤」と刻む
        伝馬町大米屋市郎右衛門他2名の奉納
 
 ◎地蔵菩薩像…本堂内  「泣き子地蔵尊」




 B泉松山法林寺  浄土宗鎮西派京都知恩院末
        「現地説明板」
  1522年(大永2年)開山の浄土宗のお寺。明治11年(1878)
 に京都知恩院の末寺に改められました。歴代住職には「三毒不滅論」を説いた南竜和尚など学識豊かな住職を輩出しています。境内には野口雨情(1882〜1945)の「曳馬の萩」の歌碑があります。
  ◎沿革
 大永2年(1522)の開山。慶譽愚文の草創。本尊は阿弥陀如来(伝慈覚大師=円仁)と観音菩薩・勢至菩薩の三体を安置し、境内1235坪を有する古刹であった。享保6年(1721)の火災・嘉永7年(1854)の震災により、諸堂宇の焼失倒壊をみ、万延元年(1861)再建の本堂も、第二次大戦により焼失した。現本堂は戦後に再建されたもので、本堂に安置する阿弥陀如来坐像(像高1,8m)は、茨城県の千妙寺から譲り受けたものである。

 ◎墓標
  ◆高厳宗慶和尚の墓
    普化宗の普大寺(虚無僧寺)の開山
  
 





 ◆即身院殿前淡州成譽仏因願盛大居士の墓
    宝永5年(1708)江戸幕府の旗本
 
  ◆県 藤七郎の墓
    明治34年(1901)森田町開墾の功労者。
    「懐恩碑」(明治32年)が森田町に立つ。
 
 (注)普化宗
 (注)県藤七郎
 ◎歌碑
  ◇「いそげ人 弥陀のみふねのかよふ世に
 のりおくれなは いつかわたらん」天保15年(1844)女人講中として伝馬町川口氏・平野屋など15名



 ◎「曳馬の萩」 昭和42年野口雨情作詞 県善三郎作曲
   スイッチョがいった
   スイッチョがいった
   曳馬の萩は
   筆になっちゃった
   スイッチョがきいた
   スイッチョがきいた
   曳馬の萩は
   野原の萩だ
 ※文学碑は法林寺住職が建て、その横に童謡を作曲した県善三郎の楽譜の刻まれた小さな石柱が建つ。

 (注)野口雨情

 ◎芭蕉の句碑
 「月影や 四門四宗も ただひとつ」
  ※芭蕉が長野善光寺で、詠んだ句。文政年間(1818〜30)建立したが、戦    災で欠損したので、昭和57年(1982)再建した。




 C西番所跡・泣き子地蔵尊跡  竜口歯科医院横(法林寺入口)
  
  「泣き子地蔵尊跡」   「現地説明板」
 舞阪の漁師がこの地にあった地蔵尊を持ち帰ったところ、泣いて元の地へ戻すようにお願いしたので、不憫に思い元の地へ返したといわれる地蔵尊の跡です。この地蔵尊が当地区「成子町」の語源となりました。

 (注)伝説「泣き子地蔵尊」